人間は必ずご飯を食べるから
本書は、2019年12月に韓国の出版社フォックスコーナー(폭스코너)から出版された『평양랭면, 멀리서 왔다고 하면 안 되갔구나(平壌冷麺、遠くから来たって言っちゃいかんな)』の全訳です。三部の一の注釈でも触れましたが、このタイトルには、2018年に板門店で開かれた第3回南北首脳会談での金正恩国務委員長の発言が引用されています。韓国人なら誰もが「あの時の!」と気づくほどに、この発言は話題になりました。著者のキム・ヤンヒ(김양희)さんは、大学で食品栄養学を、大学院で食品工学を学び、卒業後は食品専門の記者として働いていました。『統一ニュース』での「民族料理の話」というコラムの執筆をきっかけに北朝鮮への関心を深め、記者を辞めて東国大学北韓学科の博士課程に進みます。そこで北朝鮮の食料問題について研究し、現在は韓国の企画財政部の南北経済課で事務官として勤務しています。本書は、著者が北朝鮮を訪問した際に見聞きしたことや、その時々の社会情勢、北朝鮮の食料事情に関する専門知識などをふんだんに織り交ぜながら、「食べ物/料理」を切り口に北朝鮮の社会制度や人々の暮らし、また北朝鮮と周辺国との関係を語る人文書です。
著者が専攻した「北韓学」とは、その名のとおり北韓(北朝鮮)について学ぶ学問で、北朝鮮の変化に備えつつ、南北の統一を視野に入れた研究を行います。記者生活を経て北韓学を学んだ著者は、南北を行き来しながら朝鮮半島の平和実現に貢献したいと願っており、本書の執筆はその活動の一環でもあります。
著者は、本書の中で繰り返し統一に対する熱い想いを語っています。「統一」というワードは、日本の読者にとってはあまり馴染みのないものかもしれませんが、これは言うまでもなく、2つの国家に分断された朝鮮半島が1つになることを意味しています。日本による植民地支配から解放されたのもつかの間、冷戦の影響を受けて、朝鮮半島には「大韓民国」と「朝鮮民主主義人民共和国」という2つの政府が樹立しました。1950年に勃発した朝鮮戦争を経て朝鮮半島の分断は固定化されることになりますが、その過程で、家族が引き裂かれ、未だ故郷に帰ることができない人々が大勢いることは、本文でも触れられていたとおりです。
分断後の南北は長きにわたって政治的・軍事的な敵対関係を維持してきましたが、1998年に韓国で金大中政権が発足したことを契機に、南北間の交流や経済協力が具体的な形として実現していきました。本書には、南北関係が大きく進展し、南北間の交流が活発だった時期のエピソードが数多く登場します。この時期には、金剛山観光や開城工業団地などの大規模な事業から、自治体や民間レベルに至るまで、あらゆる交流事業が行われていました。しかし、これらの事業も、南北間の軍事的緊張の高まりや韓国の政権交代など、さまざまな要因によってその後中断され、現在も再開のめどは立っていません。
さて、「北朝鮮の食卓」というキーワードから、どんな料理を思い浮かべたでしょうか。数年前に日本でも大ヒットした韓国ドラマ『愛の不時着』に登場したカンネンイククス(トウモロコシ温麺/本書一部の四)や大同江ビール(本書二部の十八)を思い出した方もいるかもしれません。韓流ブームと言われて久しく、日本でも手軽に韓国料理が食べられるようになった一方で、北朝鮮の料理となると、平壌冷麺以外に思い浮かぶものはない……というのが現状で、それが現在の日本と北朝鮮の関係性を表しているとも言えます。
本書に登場した「北朝鮮の郷土料理」のほとんどは、日本に住む私たちにとってはもちろん、韓国人にとってもほとんど馴染みのない食べ物ですが、これらは朝鮮半島の北部で古くから食べられてきた伝統的な料理、もしくはそれをアレンジしたものです。食べ物は人間が生きていく上で欠かせないものであり、かつその土地の特色や歴史とも深い関わりがあります。日本の読者にとって本書が、北朝鮮で食べられている料理の味を想像し、写真を見ながら束の間の北朝鮮旅行を疑似体験することで、北朝鮮で生きる人々の暮らしに思いを巡らせる機会になることを願っています。本場の味を楽しむことは簡単にはかないませんが、「いつか食べてみたい料理」を1つでも見つけてくだされば幸いです。
[書き手]金知子(翻訳者)