書評
『夏帆 The Tale of KAHO』(新潮社)
母娘テーマ、落胆の種、象徴殺人への道
消えた猫、失(な)くした顔、境界越え、秘密の通路、地下世界、脱出口、象徴殺人、動物寓話(ぐうわ)といった村上ならではの要素が絶妙な形で再構成されている。単独の女性主人公は初めてだが、スウェットシャツに野球帽という服装や、質実な食の好み、もてないが寄ってくる異性が必ずいる、受動的で巻き込まれ型という夏帆の人物像は、村上の男性主人公そのままだ。あえて女性にしたのには理由があるのだろう。本作は一人の若い挿絵画家が異界を往還して絵本作家へと成長する物語でもあるが、村上はこの道程を象徴的なマトリサイド(母親殺し)の寓話として書いた。
文学はパトリサイド(父親殺し)を営々と書いてきたが、今世紀は女性文学の興隆もあり、世界文学シーンは「母と娘」の主題――両者の抑圧、桎梏(しっこく)、共依存、断絶と和解を含む母殺し――が真っ盛りなのだ。最新回の全米批評家協会賞を受けたインド作家の回顧録等、凄絶(せいぜつ)な秀作が多いが、父権社会の硬直を解くには、母から娘へと継承されがちな因習や母性神話を解体する必要があるからだろう。
村上がこうした波に乗ったとは全く思わないが、「生々しくなりがちな父と息子の関係より、母娘のほうに心引かれた」という取材への応答など見るに、最も評価の集まるホットスポットにすらりと変化球を投げ入れた観はある。
第一章は「君みたいな醜い相手は初めてだよ」という台詞(せりふ)で始まる。この男佐原は究極の悪を想起させる(綿谷ノボル的な)存在として隠見するものの、その後「守護天使」だとあっさり判明。意外な転換だが、短編として書きだした際には人物像が確定していなかったようだ。第二章で夏帆は佐原の気配から逃れようと武蔵境に越す。床下に住み着くありくい夫婦のために、ブラジルからの密輸品を運び、悪の権化ジャガーに身体を乗っ取られた男を殺すことになる。
第三章から物語は急角度で母と娘の関係に傾斜し、俄然(がぜん)深みを増す。ブラジルと武蔵境を結ぶ「秘密の通路」から来たシロアリの邪悪な女王が、夏帆の母に取り憑(つ)くのだ。夏帆は常々母から落胆の種のように言われ、自分は望まれない子だったという漠たる疑念に苛(さいな)まれてきた。これはまさに『1Q84』の天吾と父の関係を思わせ、村上は自伝エッセイ『猫を棄てる』でも、自分が学業面で常に父を落胆させているという「慢性的な痛み」を抱えていたと記している。これらが夏帆と母の関係に転写されているのは明白だろう。
この心的抑圧が根深く有毒なものだと気づき、異界で母と対峙(たいじ)して「母殺し」を行うのが第三章と四章だ。母も母親になったことを後悔し、娘を重荷に感じている面がある。母と理解しあい和解することが母を救い、「原因と結果が等価性で結ばれて」世界の回復にも繋(つな)がると夏帆は考える。ヒューム哲学からカント哲学への転回。
象徴殺人の後、母はすっきり回復、夏帆は自伝的絵本の仕上げへ。めでたし。とはいえ、吐き気がするほど気味が悪いシロアリの女王は、母の中に最初からいたのだろう。母と夏帆との対決が彼女の観念上に終始したことを慊(あきたり)なく思う読者もいるかもしれないが、実際に変化したのは母ではなく、それを見る夏帆の認識ではないか。そこにカント的な相関主義の発想が窺(うかが)える。集大成作である。
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