書評

『マラルメ全集I 詩・イジチュール』(筑摩書房)

  • 2017/08/20
マラルメ全集I 詩・イジチュール / ステファヌ・マラルメ
マラルメ全集I 詩・イジチュール
  • 著者:ステファヌ・マラルメ
  • 編集:松室 三郎, 菅野 昭正, 清水 徹, 阿部 良雄, 渡辺 守章
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(284ページ)
  • 発売日:2010-05-13
  • ISBN-10:4480790012
  • ISBN-13:978-4480790019
内容紹介:
存在の極限に紡がれた"詩"、哲学的小話「イジチュール」、深い謎につつまれた「賽の一振り」、さらに「エロディアード」「半獣神の午後」「アナトールの墓」など、マラルメの最重要著作を画期的な翻訳・註解によって読み開く待望の書物。

思想書一巻をもしのぐ、凝縮された一行

四半世紀ぶりに完結した「マラルメ全集」の最終配本『詩・イジチュール』には「この巻を亡き鈴木信太郎先生に捧(ささ)げる」という献辞が掲げられている。

編者たちの恩師に当たる当時の東大仏文科主任・鈴木信太郎は近代詩とりわけマラルメの大権威だったが、明治の人らしく熱烈なる天皇崇拝者としても知られていた。そこで、茶目(ちゃめ)っけのある学生が雑談のさい教授に尋ねた。「先生はマラルメと天皇陛下とどちらが偉いとお考えですか?」、予想だにしていなかった「究極の問い」に教授は一瞬絶句したが、ややあって「やっぱりマラルメだ」と真顔で答えたという。東大仏文に代々伝わるエピソードである。

ことほどさように「マラルメは偉い」のである。本書を手に取った読者は少なくとも「物質的」にはこの「マラルメは偉い」という意見に同意せざるを得ないだろう。本文テクスト三百ページ弱に対して別冊の「解題・注解」は細い活字で七百三十三ページもあるからだ。だがなにゆえに注解の多さがマラルメの偉さの証明になるのか?

マラルメはマルクス、フロイト、ハイデッガーなどが数十巻の著作を介して言おうとしたこと(あるいはそれ以上のこと)を数十行、ときには数行の詩で表現しようとしたとんでもない詩人だからである。思想を凝縮した上で、一行の詩句が無限に多様に解釈できるよう言葉を選んだのだ。芥川龍之介の箴言(しんげん)をもじっていえば、マルクスの一巻はマラルメの一行に若(し)かない、のである。この意味で本書はユダヤ教の教典に代々のラビが様々な解釈を与え、いまもなお増殖中の『タルムード』に似ている。本書が刊行にこぎつけるまで四半世紀を要したのもまさにこの理由による。次々に現れる意欲的な注解を反映したり、新たに発見・刊行されたテクストに準拠しようとしているうちに二十五年がたってしまったのだ。だが四半世紀という年月は無駄ではなかった。本書はあらゆる言語で読めるマラルメのテクスト・注解書の中で間違いなくザ・ベスト・オブ・ザ・ベストに数えられるものとなっているからである。

例えば『賽(さい)の一振り』(清水徹訳)は日本語とフランス語の活字、音韻、構文などの抜き差しならない対立の「止揚」を図った視覚的・聴覚的・意味論的翻訳の傑作である。しかし、とりわけ注目すべきは、マラルメ没後百年を記念して刊行されたマルシャン編のプレイアード新版の構成に基づいて翻訳された未刊の哲学コント『イジチュール』(渡辺守章訳)だろう。というのも、従来の『イジチュール』(一九二五年ガリマール刊)はマラルメの娘婿ボニオ博士がマラルメの未定稿を自分なりに読解して構成したものにすぎなかったからだ。本書はボニオ版を解体して再構成したマルシャンの読みに「差し当たりは従って」翻訳・解釈を進めているが、同時に、ブランショやデリダの独創的解釈を呼び起こした従来のボニオ版の翻訳も同時に掲げている。翻訳者の自負するように「『ボニオ版』と『マルシャン版』を、翻訳とはいえ同時に読めるのは、世界中で本全集のみ」なのである。

では、この世界最難解のテクストを読んだ私の感想はというと「もし、マラルメと同じくらい聡明な《引きこもり》がいたとしたら、案外、一字一句を我がことのように理解するのではないか?」というもの。『マラルメ全集』は、若き日のマラルメと同じく「虚無」と「自我の非―人称化」という存在の困難を抱えこまざるをえない二十一世紀の若者にこそ開かれているのである。(松室三郎・菅野昭正・清水徹・阿部良雄・渡辺守章編)
マラルメ全集I 詩・イジチュール / ステファヌ・マラルメ
マラルメ全集I 詩・イジチュール
  • 著者:ステファヌ・マラルメ
  • 編集:松室 三郎, 菅野 昭正, 清水 徹, 阿部 良雄, 渡辺 守章
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(284ページ)
  • 発売日:2010-05-13
  • ISBN-10:4480790012
  • ISBN-13:978-4480790019
内容紹介:
存在の極限に紡がれた"詩"、哲学的小話「イジチュール」、深い謎につつまれた「賽の一振り」、さらに「エロディアード」「半獣神の午後」「アナトールの墓」など、マラルメの最重要著作を画期的な翻訳・註解によって読み開く待望の書物。

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毎日新聞

毎日新聞 2010年5月16日

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