書評
『ヴァレリーの肖像』(筑摩書房)
精緻な読みで詩人の精神を再発見
ヴァレリーはしばしば「純粋な自己」の探求者だといわれる。だが、この「自己」はいわゆる「近代的自我」ではない。すなわち、一定の志向性をもった確固たる精神ではない。著者・清水徹によれば、ヴァレリーの自己とは、明確に輪郭づけられる実体ではなく、なかに入りこむものの多様性にしたがって姿を変える潜勢的な精神のありようなのである。これはなんとも厄介な話だ。たとえば、ヴァレリーの分身とも目されるムッシュー・テスト。この一介の株屋はいっさい著作をおこなわない。しかし、つねに変化する意識の現象すべてを言語化できる能力をもつ。それなのに、その自由に使える能力を使わず、潜勢的な存在であることを選ぶ。精神のあらゆる可能性を汲(く)みつくすために、文筆による精神の不完全な顕在化を拒否するのである。
ムッシュー・テストがこうした精神生活の基盤に置いているのは、死のモラルである。人間には死があり、世界には限界がある。この限界としての死をたえず見つめながら、意識の働きを可能なかぎり強く持続させることが、ムッシュー・テスト=ヴァレリーの自己のあり方だ。
有名な長篇(ちょうへん)詩『若きパルク』もまた、地中海を舞台とする神話的な意匠にもかかわらず、「夢想の人物と、同時にまた夢想の対象とが、ともに意識された意識であるような、そうした一夢想」である。つまり、鏡を覗(のぞ)きこむ自分を覗きこむ自分を覗きこむ自分を覗きこむ……自分という無限のナルシスの物語だ。ヴァレリーが生涯、ナルシスを特権的なテーマとして描いたことは偶然ではない。
若きパルクもまた、自己の内部に視線を深めてゆくうち、光は失われ、視線は闇にさまよい、ムッシュー・テストと同じく、限界としての死を発見する……。
清水徹の読みは、ヴァレリーの意識に寄りそうように精緻(せいち)で、息苦しいまでに正確だ。そのようにして再発見されるヴァレリーの肖像は、「地中海的調和と純粋詩の詩人」ではなく、死とエロスを内側に抱えこみ、意識の隘路(あいろ)を這(は)いすすむ蛇である。読後、めまいのような解放感さえひきおこす恐るべき解読力なのだ。
朝日新聞 2004年12月12日
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