書評
『ムッシュー・テスト』(岩波書店)
贅肉を削ぎ落とした明晰な訳文
おのれの資質が見極められなかった高校生の頃、自意識に悩まされた私はそれとおぼしき本を手当たり次第に読みあさったが、そのとき、何が書いてあるのかさっぱりわからない本が一冊あった。小林秀雄訳のポール・ヴァレリー『テスト氏との一夜』がそれである。これはエドモン・テストという中年男と出会った「私」が、この「知性の怪物」の「生活と意見」を記述していくという体裁の小説で、オペラ座だとか屋根裏部屋といったバルザック的小説のお膳立ては整えられてはいるものの、テストの語る言葉がわからなければ小説を読んだとはいえない構成になっていた。
しかし、いくら精神を集中してもこれが皆目理解できないのである。たとえば、「僕は、およそ物事の裡に、これを知りこれを完うするやさしさとむずかしさ以外のものは認めない。僕はこの難易の度合いを計り、物事に執着しないように、極度の注意を払うのだ……よく承知しているなどという事が一体何が面白い」(小林秀雄訳)と語るテスト氏のことを、語り手は「曖昧な事は一切口にださない人」と注釈をつけているのである。私にとっては、これ以上「曖昧な事」はないように思えるにもかかわらず。
そんな記憶があったので、今回、訳者も代わり、『ムッシュー・テスト』というタイトルになって再登場した本書を手に取ってみた。
で、結果はというと、あいかわらず理解に相当の努力は必要なものの、明晰な訳文のおかげで、少なくとも訳文からくる曖昧さはなくなった。右のテスト氏の言葉は、次のようなムッシュー・テストの言葉となる。
どんなものごとについても、それを認識するのが、実現するのが易しいか難しいか、わたしはただそれだけにしか関心がないね。難易の度合を測ることには極度の注意をはらっている。しかも何ごとにも執着しないようにしているんだ……そもそも、よく知っていることなど、わたしに何の意味がある?
しかし、再読による収穫はまったく別のところにあった。それは、ヴァレリーにとっても、また最初の翻訳者である小林秀雄にとっても、ムッシュー・テスト(テスト氏)こそは、生き方の「カッコよさ」の指南役であると認識されていたということだ。
「オレは天才だ」という自負と「オレはゼロだ」という劣等感との間で悩みながら、名声に憧れた若き日のヴァレリー(と小林秀雄)は「自分の伝達と、なくてもいい満足感の下準備のためにエネルギーをついやす」周囲の若者を見て、それが自分の姿であるだけに「そういうのはカッコわるいぞ」と感じたにちがいない。だから「カッコいい」理想像として「透明な生活を営んでまったくひとめにつかず、孤独に生きて、世のだれよりも先がけて理を知っている」理想の人物を造形し、この一切無駄な肉のない思想のアスリートに自分を重ね合わせようとしたのだ。それがムッシュー・テスト(テスト氏)だったのだ。
だが、ヴァレリーの「ムッシュー・テスト」と小林秀雄の「テスト氏」では、その無駄な肉(曖昧さ)の排除という点で、ボブ・サップと曙くらいの差があった。ところが、困ったことに、おのれの贅肉(ぜいにく)を曖昧さと意識しなかった小林秀雄は、切れのいいタンカという肉襦袢を被って「テスト氏」に成りすまし、若者たちを「おまえら、カッコわるいぞ」と恫喝しつづけたのだ。
肉襦袢を脱ぎ、贅肉を削ぎ落とした等身大のムッシュー・テストがようやくわれわれの前に現れたようである。(清水徹訳)
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする







































