書評

『知への意志 (性の歴史)』(新潮社)

  • 2017/07/25
知への意志  / ミシェル・フーコー,渡辺 守章
知への意志
  • 著者:ミシェル・フーコー,渡辺 守章
  • 翻訳:渡辺 守章
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(217ページ)
  • 発売日:1986-09-12
  • ISBN-10:4105067044
  • ISBN-13:978-4105067045
内容紹介:
一つの社会は権力、快楽、知の関係をいかに構成し、成立させているか。フーコー考古学の鮮やかな達成。

夕暮れのフーコー

この一冊を手にするとき、当惑に近い複雑な思いにとらわれるのは、私ばかりではないだろう。

『知への意志』はもともと、全六巻からなるはずの大著『性現象の歴史 Histoire de la sexualité』の序論として、ちょうど十年前に、好評のうちに出版されたのだった。ところがその後、構想が変わったとかで、本論のほうがなかなか出ない。ようやく八四年に二巻と三巻が刊行されたかと思えば、今度は意外にもフーコー自身の死。一部に釈然としない噂を残したまま、期せずして未完の遺著となってしまった、この一冊――。

『性現象の歴史』―sexualité を、性現象もしくは〈性〉と訳しておく―が難航したのは、著者晩年の気力・体力の衰えのせいか? それとも、構想そのものに致命的な弱点が隠されていたためか? 第二巻『快楽の活用』を読んでみると、スリリングだった序論『知への意志』からの落差がはなはだしい。叙述はいかにも平板で、どのような展望が性現象をめぐってひらかれて行くのかも掴みづらい。こんなふうに本論がよろけてしまうのなら、その序論(知への意志)になんの値打ちがあるというのだ?

フーコーが本論を書き進めるなかで、性現象の歴史をどのように構想し、どこまで攻略の地歩を築いていたか。その辺りは別途に、よほど慎重に検討したほうがいい問題だ。けれども、よしんば彼自身の『性現象の歴史』のプランがなにほどかの誤謬を含むものであるにせよ、彼の手がけた権力分析が、もはや消し去ることのできない圧倒的な印象をわれわれのあいだに残したのは確かである(たとえば吉本〔一九八六︰四九〕はフーコーを、「最初に権力について正確なことを言い切った」と評している)。



『知への意志』で圧巻なのは、何といっても第四章「性的欲望の装置」だろう。ここにさまざまな仮説系のかたちで示唆されている。微分的な権力に対する洞察は、今後幾世代かにわたる論客がかならず参照すべき共通の準拠点となるはずだ。

そこに到る議論の筋道を、簡単に追ってみよう。

冒頭(第一章)に紹介されているのは、われわれをとらえる「抑圧の仮説」である。フーコーによればこれこそ、近代のもたらす“信憑”なのだ。この時代にあって権力は、法律的権利という表現をとった、局在する統治機関としかみえない。そして、性の領域に外在しながら、それを抑圧するものと信じられる。しかし彼は、この信憑を裏返す。近代における権力の戦略は、性を抑圧することにはない。むしろ、そうみせかけつつ、性を語らせ記録する仕組みを多様に配置し、性に関する言説を爆発的に増殖させることにある! その証左がたとえば、「性の科学」だ(第三章)。

フーコーのキイ・ワードを、性・言説・権力の三つにしぼってみよう。彼は、これらの関係を配列しなおすことで、権力についての新しいイメージを描くことに成功している。それは、誰もがうすうす勘づいていながら、これまでうまく口にできなかったものだ。

抑圧の仮説によれば、権力と性とは相容れないもの、権力は外から性を抑圧してやまないものだった。しかし、両者の間に言説のレヴェルを一枚噛ませてみると、ことはそう単純ではない。彼によると、権力はどうやら、言説をつうじて性に関係するらしいのだ。人びとをますます、否応なしに(性的な)欲望の主体に仕立てあげるため、性的言説がいたるところで増殖してゆく。「性的なことを口にしてはならない」というたぐいの、狡猾な形ではびこる言説も含めて。



さてフーコーは、権力をつぎのような性質のものと考えてはどうか、と提言する。すなわちそれは、①分割可能な客体ではなく、ゲームのなかで行使されるもので、②あらゆる社会関係に内在し、③下からあらゆる方向への力線をなし、④意図的であると同時に非―主観的であり、⑤つねに抵抗と共在する。そしてまた、権力分析にあたって四つの規則を掲げ、注意をうながす。(1)内在性の規則、(2)不断の変化という規則、(3)二重の条件づけという規則、(4)言説の戦術的多義性という規則。

こうした一連の提案は、試論的なものとみてよい。だから、いちいちの内容には立ち入らないで、要するにその言わんとするところをじつめてみると、こういうことではないか。―社会会体の全域を蔽い、言説や主体やその他さまざまな社会形象の配列や生滅をつかさどる(不可視の)装置として、権力を考えることにしよう、ということ。

この提案は、彼がかつて『知の考古学』(一九六九)で開始したところの、権力分析の微分幾何学的文体につながっている。その文体を、われわれの社会の上にいま現に作用する権力に対してまで、一層積極的に適用しようとした、果敢な試みである。そのことはたとえば、権力の性能を「変換行列 matrices de transformations」―例によって、「変形の母型」なる珍妙な訳語があてられているので注意(訳書一二九ページ)―になぞらえているところから、はっきりわかるはずだ。この変換行列は、観察可能な権限や資産や言説や……の布置・配分(ベクトル)に直接関わるのではなく、それらの投入/産出(変換関係)に関わる。いわばメタレヴェルにおける権力の機能に対応するものである。それらの配列や生滅を支配する、権力―。

知の考古学  / ミシェル・フーコー
知の考古学
  • 著者:ミシェル・フーコー
  • 翻訳:中村 雄二郎,慎改 康之
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(435ページ)
  • 発売日:2012-09-05
  • ISBN-10:4309463770
  • ISBN-13:978-4309463773
内容紹介:
あらゆる領域に巨大な影響を与えたフーコーの最も重要な著作を気鋭が四十二年ぶりに新訳。フーコーが『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』を生み出した自らの方法論を、伝統的な「思想史」と訣別し、歴史の連続性と人間学的思考から解き放たれた「考古学」として開示する。それまでの思考のありかたに根底から転換をせまる名著が新たなすがたで甦る。

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こうした提案は、野心的で刺戟的で、魅力的だが、それは幾分、試論(予告編)的な性格によっているのかもしれなかった。それだけに、残る五巻の本論による肉付けが待たれたのである。



晩年のフーコーの足跡を振り返って、ここで素朴な問いを二、三発してみよう。

問題は、(広義の)権力なのである。それなのに、なぜ彼は、性現象の解明へと向かったのか? なるほど、性現象と権力とは、複雑緊密に織り込みあっているという。だから、性現象を解明することで、権力について明らかになる部分も多いだろう。けれどもなぜ、直接に権力に向かうのではなくて、〈性〉だったのか、疑問が残るところだ。

フーコーは権力に関する「理論」を回避している。たしかに理論は、それ自体言説の一種であることによって、複雑な問題をはらむ。けれども、彼の「実証への意志」が理論を回避するところから(だけ)どうしようもなく発しているのだとすると、これもまた問題であろう。性現象への視線は、権力を実証する視線以外のものでない―。

さらにまた、彼の実証手続きはあくまで、言説分析を第一義とする。性現象の分析とは要するに、性に関する言説の分析なのだ。この間接性が、権力分析にとって有害である可能性もある。

第三に彼は、周知のように、権力を支える社会形象の系譜学的な追究を通じて、告白に特権的な位置を与えている。告白は、主体や真理を生産する、言説行使の技術であり、プロテスタンティズム/カトリシズムのなかで近世初頭に制度化されたものだ。そこまではよい。しかし問題は、主体は告白の制度なんかよりももっとずっと古く、古代に(たとえばイエスの説教とともに)始まっているのではないか、ということだ。

そうだとすると、実証計画は、当初の目算から大幅に狂いを生じてしまう。プロテスタンティズムにしても、人文主義(古代への復古主義)を経過しており、告白の制度そのものが複雑な屈折を宿していることになる。考古学的な方法によるかぎり、これを全部追い切るほかないわけだ。ますます労多くして益少ない努力……。

だからむしろ、理論によるべきではないか、と私は思う。その可能性をぜひ、もう一度考えてみるべきだ。ただ私も、かつてのフーコーと同様、試論的にしかのべていないので、いまは威勢よくみえるだけのことかもしれない。がまあ、それはそれとして。



『知への意志』を書いた段階で、フーコーが権力について、今日のわれわれを上回るどれだけのことを思いついていたか、と考えてみる。五十歩百歩ではないか、と思えてならない。これは、フーコーを軽視して言うのではない。われわれはみな、フーコーに引っぱってもらったのだ。もうこれから先は、自力で考えるしかない。そのことがわかる本だと思う。また、そう読まなかったら仕方ない。

『知への意志』は第一級の書物である。いまさら私が言うまでもなく。私が言いたいのは、それを、彼の未完の『性現象の歴史』への序論として(だけ)読んではならない、ということである。それは、今後来るべき、幾多の〈性〉および権力をめぐる創造的な議論総体の、序章とみなされるべきだ。さあ、めいめいてんでに本論を、一章ずつ書き継ごうではないか。

【文献】橋爪大三郎「フーコーの微分幾何学」『仏教の言説戦略』勁草書房、一九八六年/吉本隆明「権力について―ある孤独な反綱領」(『ORGAN』1、一九八六年、四九~五八ページ)/“M.Foucault At His Sunset” by HASHIZUME Daisaburo 1987

仏教の言説戦略 / 橋爪大三郎
仏教の言説戦略
  • 著者:橋爪大三郎
  • 出版社:サンガ
  • 装丁:文庫(349ページ)
  • 発売日:2013-10-28
  • ISBN-10:4905425611
  • ISBN-13:978-4905425618

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知への意志  / ミシェル・フーコー,渡辺 守章
知への意志
  • 著者:ミシェル・フーコー,渡辺 守章
  • 翻訳:渡辺 守章
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(217ページ)
  • 発売日:1986-09-12
  • ISBN-10:4105067044
  • ISBN-13:978-4105067045
内容紹介:
一つの社会は権力、快楽、知の関係をいかに構成し、成立させているか。フーコー考古学の鮮やかな達成。

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初出メディア

フェミニテ

フェミニテ 1987年2月

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