書評
『ユマニスムの夢 ペトラルカからエラスムスへ』(岩波書店)
万人の理解しあえる場としての倫理基盤
海外旅行が珍しくなくなったせいか、現地の外国人にふれる機会も少なくない。イタリア人というと、陽気で明るいのはいいのだが、どこかチャラチャラしているように見えるらしい。居酒屋の話題になると、しばしば「あんな軽薄そうなイタリア人が、なぜ古代にローマ帝国のような世界史を轟かせる偉大な覇権を実現したのか、不思議でならない」とは、よく聞く疑問である。
同じことは、すでに十四世紀半ば以降のイタリア本土でもおこった出来事である。古典ラテン語の時代が達成したものへの享楽的憧憬がめばえているのだ。学識ある詩人ペトラルカは『韻律書簡』のなかで熱っぽく語っている。
ラテン語を礎とすることなかりせば おしなべて知への思いは眠りに落つ そは香りいと高き芸術の座位にあり 遠きかなたより太古の時を伝え来て われらが時代を行く末に伝えゆかん
中世のスコラ哲学の伝統にならえば、詩は「すべての教えの中で一番低い」と考えられていたが、文学の核には美しさと優しさがあることに気づいた芸術家がいた。やがて彼らはユマニストとよばれ、とりわけ古典ラテン語の文章にすっかり魅了されてしまうのだった。
これらの芸術家はしばしばルネサンスとよばれる文芸運動として知られるが、絵画や彫像を対象とする美術史の観点から語られがちであった。だが、そもそも「ラテン語が栄える時、あらゆる知が開花する」と唱えられており、ラテン語の高雅な文体に習熟し、古代の文芸・文学を復興することこそが新しい文明の基盤となる、と信じる人々がいた。彼らの知的系譜は、ペトラルカからヴァッラを経て、しだいにアルプス以北へと伝播し、十六世紀初めにはエラスムスによってさらに深められ、やがて新世界にまで波及していく大きな思想運動なのである。
とくにヴェネチアに近いパドヴァ地方では、ペトラルカと同時代の凡庸な教師たちすら質の高い文学の写本を数多く渉猟していたかというから、実情を知れば、驚嘆せざるをえないという。
それに加えて、抽象的な理に走りがちな哲学者に比べて、庶民は具体的な出来事を話題にする。だから、「庶民は哲学者より話し上手だ」(ヴァッラ)と指摘されれば、大いに納得するものがある。そもそもラテン語という言葉は、庶民になじみ深い具体性に富む言い回しを得意としているのだから、古典ラテン語復興の動きは決して知識人だけにかぎられるわけではなかった。古典の素養を身につけて困る人など一人もいなかったという。
かくして十五世紀前半になると、ユマニスムが地方都市の学校から大学の文芸学部にいたるまで、教育にしかと根を下ろすのだった。それはユマニストたちが夢見た「より良き時代」の到来であったが、権力も財力も手に入れた頃から、皮肉にも教育につきものの凡庸さが目立つようになり、新参ユマニストたる学生は、所詮は覚束ない足取りでしかなかった。
ほどなく印刷術が開発され、知識や技術が一般化することになり、夢と現実との差異に目覚める時が来た。ユマニスムの先陣を切ってきた人物が偉業をなすような格別の知識人ではなく、凡庸な教師としか見えなくなってしまうのだった。
だが、アルプスの向こう側では状況は異なるのだった。イタリアではユマニストという語が落ちぶれたものになり下がっていったのに、北方では、斬新であり、文化モデルだけではなく生き方のモデルとして、熱く迎えられていたのだ。とりわけ、支配階層、貴族階級の後押しを得たことが決定的だった。
イタリアでも、王侯、貴族、有力者たちにとって、高貴な生活をおくるにはユマニスムを身につけることが必須であったらしい。それとともに、ユマニスムの伝統は、専門職の殻に閉じこもり、おりしもギリシャ語とギリシャ文学が注目されるなかで、正確なテキストを目指す文献学に仕えるようになる。
宗教改革が進みつつある時代に傑出していたのは、ロッテルダムのエラスムスであった。エラスムスは、公人でも思想家でもなく、人文学教授であり、その博識よりも教育者としての資質に恵まれていた。新しい真理を見出すことよりも、有益なことを伝える術(すべ)を身につけることが肝要であったのだ。
かくして、エラスムスはユマニスム最後の夢を開花させる。それは、万人の理解しあえる場としての倫理基盤であったが、ユマニスムという名の夢として開花したにすぎなかったのかもしれない。
著者は、スペイン随一の文献学者であり、中世文学史の碩学である。セルバンテス『ドン・キホーテ』など多数の古典作品の校訂注釈にも携わっている。まさしくユマニスムの流れ総体を巨視的かつ子細に論じるにふさわしい巨匠である。
ALL REVIEWSをフォローする