書評

『大いなる文法学者の猿』(新潮社)

  • 2017/10/15
大いなる文法学者の猿   / オクタビオ・パス
大いなる文法学者の猿
  • 著者:オクタビオ・パス
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:-(185ページ)
  • 発売日:1977-05-01

オクタビオ・パス(Octavio Paz 1914-1998)

メキシコの詩人・評論家。19歳で第一詩集『野生の月』(未訳)を発表。1946年より68年まで外交官を務めるかたわら、詩論『弓と竪琴』(1956)、文化論『孤独の迷宮』(1960)などを発表。その後は、英米の大学で教鞭をとりながら文学活動をつづけた。1990年にノーベル文学賞を受賞。『大いなる文法学者の猿』は1972年に仏語版が先行して出版。そのほかの著作に詩論『泥の子供たち』(1974)、評論『二重の炎』(1993)などがある。

introduction

コルタサルの項でも述べたように、ぼくは装幀に惹かれて全集や叢書を買いあつめる悪癖がある。不思議なことに、装幀が好ましく思うものは、内容もぼくの嗜好に合うのだ。早川書房の《異色作家短篇集》や《ブラック・ユーモア選集》、内田百閒の作品を揃えた《六興愛蔵文庫》など、ちょっと小ぶりな判型で華美を排した装幀には、とりわけ弱い。しかし、大判でも好きなものはあって、新潮社の《創造の小径》はその代表だ。渋いクロス装で品のよい函がついている。中身にはたくさんの図版が入っているのだが、美術書や図鑑ではなく、また挿絵本の類ともまったくちがうたたずまいなのだ。これを一冊ずつ買い揃えていくのが、ぼくのささやかな楽しみだった。ここに紹介するパスの『大いなる文法学者の猿』もそうして手にした一冊である。

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文学に関わるうえで、言葉の問題は避けて通れない。それは、楽曲をつくるために音が必要だとか、絵画を描くには色彩が欠かせないというのとは、だいぶ事情がことなる。おそらく作曲者が音を扱ったり、画家が色彩を用たりするようには、小説家は言葉を操りきれない。物理的にみれば、言葉は、音や色よりもはるかに制約が少ない。しかし、小説家は言葉の主人になりきれず、むしろ言葉のほうが小説家を引きまわしている。それは、人間は表現のために言葉を使うだけではなく、言葉によって感じたり考えたりしているからだ。言葉はただの素材や道具ではなく、精神や心の機構とわかちがたくむすびついている。

その背景や経緯を説明すると長くなるが(それに必要な知識もぼくにはない)、二十世紀文学の歴史は、この言葉問題と格闘しつづけた軌跡といっても過言ではない。この問題を解くうえでの作業仮説――というか極限値――として、「言葉=世界」という作品を措定してみる。ふつうの小説では、言葉は虚構世界を表現するための手段だ。読者は、書かれた言葉のむこうにある世界を知ろうとして本を読む。そうではなくて、言葉そのものがひとつの世界を構成するような小説は可能だろうか? あるいは、そういう読みかたができないだろうか?

そんなことを真剣に考えていた時期があった。常識的な解法は、詩の方句へとむかうことだろう。たとえばロートレアモン伯爵の『マルドロールの歌』などだ。また、ロラン・バルト流の“テクストの快楽”も手がかりになりそうだ。しかし、軟弱なぼくは、どちらも途中で投げだしてしまった。力任せに理解しようとしたのが裏目に出たようだ。

そんな悪戦苦闘をしているときに、ひとすじの光を与えてくれたのが、オクタビオ・パスの『大いなる文法学者の猿』である。この本は、澁澤龍彦が大喜びしそうなイメージのおもちゃ箱ともいうべきつくりで、ページのなか『ラーマヤナ』に登場する猿の頭ハヌマーンの全身像、インドの廃墟ガルタの風景、タントラ派の絵、愛の儀式を描いたミニアチュール、カンディンスキーやタンギー、それにジャスパー・ジョーンズの絵画、鉱物の写真などが挟みこまれている。これらおびただしい図版のあいだを、ゆったりと流れる川のように、パスの文章がすぎていく。

最良の方法は、ガルタへの道をえらび、それを再び歩いてみること、つまり歩くにしたがって道を創造することだろう。私自身気づかぬまま、ほとんど無意識のうちに終着点まで行くことだろう――《終着点まで行く》ということが何を意味するのか、またこんなことを下記ながら自分が何を言わんとしたかも気にせず歩いてみることだ。私は もうとっくに街道を外れ、ガルタへの小径を歩いていた。雀榕(あこう)の木が密生した所や、腐った水が澱んでいる水溜りを通り過ぎ、廃墟と化した大門を後にして、崩れ落ちた屋敷跡に囲まれた小さな広場に辿りついていた。(略)‥‥だが一体何と出会うというのだ。その答えはその時も判らなかったし、いまもって判らない。だからこそ《終着点まで行く》と書いたのだろう。(略)こんなことに思いを巡らせながら書き記しているうちに、いつのまにか道が消えていく。

ガルタにつづく道のりをたどっていくうち、まわりのようすをあらわすために繰りだした言葉が、語り手の意識へと逆流しはじめる。しばし言葉のありかたや作用について思惟をめぐらせ、その言葉を追ううちに、それがまたガルタへの道につながっていく。パスの文章は、ところどころ難解な論理を含んでいるものの、それを正確にわかろうとしなくていい。乱暴に言ってしまえば、それは呪文のようなものだ。

そうするうちに、語り手は、二段づくりのバルコニーを左右にしたがえた、大きな扉に到着する。これをくぐると、ちいさな広場があり、その右手には昔の建物が瓦解して判然とせぬままに積みかさなっている。百メートルほど先には水飲み場があり、猿たちが集まっている。ここにあらわれているのは、ぼくらの五感にうったえかける世界だ。匂い、色彩、光、感触、騒音などが押しよせてくる。しかし、ふと壁画に目を止めたとき、まずそこに語られている物語を考え、やがて解釈に苦しむほど入りくんだ線や構図、渦巻き模様、錯乱した地図などへと没入し、しみや消し跡といった抽象的な領域をとおって、いつのまにか言葉について語りはじめる。

けっきょくのところ、この作品は、言葉について言葉で語る堂々めぐりなのだ。しかし語り手は、〔恐らくは現実もまた一つの比喩なのだ(略)。ことによると、事物とは事物そのものではなく、言葉のことかも知れない。つまり別に事物の比喩であり、言葉のなのかも知れない〕と言う。つまり、世界もまた言葉であり、語り手は自らの言葉のむこうに世界を創造しながら、同時に言葉そのものとしての世界を読みほどいていく。

パスがえらんだ言葉をめぐる堂々めぐりは不毛なものではない。言葉と世界とが反転するなかで、さまざまなイメージが浮び、はかなく消えていく。作品をつらぬく、ガルタにむかうゆっくりとした徒歩旅行には、いくつもの小さな物語が挿入されている。女神シーターの再生の神話、精神病院で一枚の絵を描き続けるリチャード・ダッド、壁に映る自らの影を眺めながら媾合する男女、そして大空に炎の記号を描いたハヌマーン……。そうしたエピソードは、すべて世界と言葉の連環を象徴しながら、入れ子細工のように『大いなる文法学者の猿』という全体に嵌めこまれ、迷宮をつくりあげていく。ガルタへの道に決まった地図はない。

【この書評が収録されている書籍】
世界文学ワンダーランド / 牧 眞司
世界文学ワンダーランド
  • 著者:牧 眞司
  • 出版社:本の雑誌社
  • 装丁:単行本(397ページ)
  • 発売日:2007-03-01
  • ISBN-10:4860110668
  • ISBN-13:978-4860110666
内容紹介:
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大いなる文法学者の猿   / オクタビオ・パス
大いなる文法学者の猿
  • 著者:オクタビオ・パス
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:-(185ページ)
  • 発売日:1977-05-01

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