書評

『親指Pの修業時代』(河出書房新社)

  • 2017/08/17
親指Pの修業時代 上  / 松浦 理英子
親指Pの修業時代 上
  • 著者:松浦 理英子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2006-04-05
  • ISBN-10:4309407927
  • ISBN-13:978-4309407920
内容紹介:
どこにでもいる無邪気で平凡な女子大生、一実。自殺した親友の四十九日の翌日、眠りから目覚めると、彼女の右足の親指はペニスになっていた。突然現れた親指Pに困惑し、揺れ動く人々。そして無垢だった一実にも徐々に変化が訪れ-。驚くべき奇想とユーモラスな語り口で大ベストセラーとなったあの衝撃の作品が、待望の新装版に。

平凡なことを非凡に言うのが傑作なんだよ

松浦理英子さんの『親指Pの修業時代』(河出書房新社)を読みながら、傑作の条件とはいったい何だろうと思った。そして、それは要するに「平凡なことを非凡に言う」ということじゃないかと思ったのだった。

「傑作」という言葉からぼくが連想するのは、たとえばフロベールの『ボヴァリー夫人』だけど、あれなんかこの「平凡なことを非凡に言う」の典型じゃないだろうか。同じフロベールでも、『感情教育』になると、ちょっとだらだらしてて、そこがなんとも言えず魅力的となってくる。出てくる人物も会話もまったく俗の俗なのに読んでてすっかりときめいてしまうのは、書き方が非凡だとしか言えないわけなんだ。で、何が非凡かというと、読者に「ああ、こういうことってあるんだよなあ」と思わせるからなのである。へえ、じゃあ平凡なことを平凡に書いてる世間一般の小説はどうなんだとおっしゃるかもしれませんが、それだけでは読者は「そんなもんかねえ」としか思ってくれない。ほんと、小説は難しいね。そして松浦さんは、読者に「こういうのってあるよ、わかってるねえ」と言わせる小説を書いた。つまり傑作だってことなんだ。

この『親指P』は当然これからいろんなことを書かれるだろうが、ありうべき誤解を避けるために、いくつか気づいたことを箇条書きにしておこう。

① この小説がうまくいったのは、文章を素っ気なくしたせい。
――最初にも書いたけど、いろんな意味で『親指P』は『感情教育』を連想させる。フロベールも素っ気ない書き方をしていたが「修業中」の身なのだから、それでいいに決まってる。こういう時、文章に凝るようじゃダメ。

② でもって、その素っ気ない文章に合うように(因果関係は逆だけど)、主人公の女の子がちょっと「鈍く」設定されている。
――これも『感情教育』と一緒。主人公の程度を読者よりちょっと下に設定したところがグッド。その辺は松浦さんがちゃんと本文で説明している。

「……地球上のある村に、人間の心を読める宇宙人がやって来るんだ。その宇宙人に村が支配されるんだけど、やっつけようとしても行動を先に読まれてしまうから攻撃は悉く失敗する。ところがある日、村中の者に馬鹿呼ばわりされていて事実少し知恵の足りない青年が、宇宙人を一撃して倒した。驚いた村人たちが、どうしてあんなことができたんだ、と青年に尋ねたら、彼は何も考えないでやったんだと答えたんだ。一美ちゃんはその青年に似たところがあるな。知恵が足りないとは思っていないけど。」

私は面白い喩えに喜んだ。

「きっとそんなものですよ、私は。」

ほんとうはここまで説明することはなかったんだが、読者がわからないと困るので書いちゃったのかもね。

③ ②のような設定にするとどうなるかというと、主人公はのべつまくなしに「考える」ようになる。実は、小説でいちばん面白いのはその「考える」ことなんだ。

そういうわけで、突然親指がペニスになっちゃった女の子の物語であるこの小説は、過激とか異色のセックスとか言われるかもしれないけど、それは誤解で、ふつうの読者のためのユーモアに満ちた青春小説であることを忘れてはいけない。しかし、これを読むと、性的な変身というテーマの大古典フィリップ・ロスの『乳房になった男』の主人公ケペシュ教授も馬鹿に見えるよなあ。アメリカの大インテリも日本の若い女の子にはかなわない、ってか!

【この書評が収録されている書籍】
いざとなりゃ本ぐらい読むわよ / 高橋 源一郎
いざとなりゃ本ぐらい読むわよ
  • 著者:高橋 源一郎
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:単行本(253ページ)
  • 発売日:1997-10-00
  • ISBN-13:978-4022571922
内容紹介:
どんな本にも謎がある。世界一の文学探偵タカハシさんが読み解く本の事件簿、遂に登場。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

親指Pの修業時代 上  / 松浦 理英子
親指Pの修業時代 上
  • 著者:松浦 理英子
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2006-04-05
  • ISBN-10:4309407927
  • ISBN-13:978-4309407920
内容紹介:
どこにでもいる無邪気で平凡な女子大生、一実。自殺した親友の四十九日の翌日、眠りから目覚めると、彼女の右足の親指はペニスになっていた。突然現れた親指Pに困惑し、揺れ動く人々。そして無垢だった一実にも徐々に変化が訪れ-。驚くべき奇想とユーモラスな語り口で大ベストセラーとなったあの衝撃の作品が、待望の新装版に。

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初出メディア

週刊朝日

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