選評
『魚神(いおがみ)』(集英社)
小説すばる新人賞(第21回)
受賞作=千早茜「魚神」(「魚」改題)、矢野隆「蛇衆」(「蛇衆綺談」改題)/他の候補作=ささげあい「モトマチとねこ」/他の選考委員=阿刀田高、五木寛之、北方謙三、宮部みゆき/主催=集英社/後援=一ツ橋綜合財団/発表=「小説すばる」二〇〇八年十二月号二作の美点
『モトマチとねこ』(ささげあい)は、すなおな文体で、ほどよく語られた自己回復小説だが、しかしいつかどこかで読んだような既視感があった。語り手の「私」は、駆け落ちの果てに心中した母親に、自分の気持を伝えようとしなかったという精神的な傷をもち、「私」の彼もまた、車の事故で両親を死なせ、才能あるピアニストの妹に重傷を負わせたのではないかという心の傷をもつ。二人はモトマチという商店街にともに住み、街の人たちのゆったりした気分に包まれながら、料理をつくりそれを食べることを通して、心の傷を癒して行く……。これはかなり古い道具立てではないだろうか。たとえば、食べることについてうんと思索を深めるとか、商店街の魅力についてもっと語るとか、ほどのよさを壊す覚悟で徹底して書いていたら、あるいは新味が出たかもしれない。評者が強く推したのは、『蛇衆綺談』(矢野隆)である。改行の多い文体に辟易させられたが、じつはこの文体は戦闘の動きを写し取るために用意されたものだった。そのためにすばらしい速度感も生まれた。近ごろの小説に流行の自閉的な傾向にも陥らずに、作品世界が完全に読者に向かって開かれているところにも感心したし、ギリシャ悲劇やシェイクスピア悲劇を溶かし込んだような筋立てもどっしりとしていて、これは作者の美点である。そして、さまざまな生い立ちの戦闘請負人たちが金を目当てに戦ううちに、掛け替えのない仲間になり、ついには仲間のために戦って死んで行くという筋立てはありふれているように見えるが、しかしどっしりとした土台と速度感のある文体のおかげで独特の作風が生み出された。
『魚』(千早茜)には、辛い点をつけていた。たしかに逞しい作家的膂力(りょりょく)と馬力がある。登場人物たちを(やや戯画化しながらではあるが)くっきりと造型してもいる。けれども力が入りすぎたのか、物語の山場になるとそのたびに文章が擬態語満載の観念的な美文になるのが気になった。つまり万事厚塗(あつぬり)の印象。なによりも、作者は自分の作った物語の中に逆に閉じこめられてうろうろしていて、作品が読者に向かって開かれていない。つまり作中でなにが起ころうと読者は驚かないのではないか。それで辛い点になったが、選考委員会の白熱の議論に揉まれているうちに、厚塗りはこの作者の美点、これをよい方に受け止めようと考えをかえ、最後は二作受賞に賛成した。
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