解説

『花火屋の大将』(文藝春秋)

  • 2017/08/24
花火屋の大将 / 丸谷 才一
花火屋の大将
  • 著者:丸谷 才一
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(257ページ)
  • 発売日:2005-07-08
  • ISBN-10:4167138174
  • ISBN-13:978-4167138172
内容紹介:
恋人同士は握手してはいけないというお話から、我が国文学に占める蛙の役割の考察まで―硬軟両用、滋味豊富。ご存じ丸谷さんの傑作エッセイ集
たまには学生が卒論やレポートについて相談に来る。テーマが見つからないで、困っている人には必ず丸谷才一氏のエッセーを勧める。読んでいるうちに、きっと何かのきっかけをつかめるからだ。このアドバイスは効果てきめん、読んでいて豁然(かつぜん)として視野が広がるらしい。逆に自分のレポートがいかにも独創的だと自慢する学生にも、同じテーマについての文章を見せたことがある。自信満々の顔がみるみるうちに青ざめていくのが面白い。

丸谷才一のエッセーには独特の語り口がある。作者名を伏せてもすぐにわかる。一見、直接、読者に語りかけているようだが、じつはそうではない。誰か親しい友人を相手に漫談をしているようなものである。その場には、読者のために三脚目の椅子が用意されている。丸谷氏のエッセーを読むのは、三脚目の椅子に座って、その漫談をそばで聞くようなものである。この架空の三者関係があるからこそ、文中に挿まれた会話体は臨場感を与えるものとなる。しかも、読者に向かって語っているものではないから、押しつけがましさはまったくない。

気心の知れた相手との漫談だから、話題も多岐にわたる。書物の話、雑学的な知識、知人のうわさ、有名人のゴシップ。興味を引く話柄は事欠かない。初めて丸谷才一氏にお目にかかったとき、その話し方が文章とそっくりなのにたいへん驚いた。一度、日本橋にある天ぷら料理店「はやし」でご馳走になったことがある。天ぷらの美味しさも印象に残ったが、丸谷氏のユーモアたっぷりの雑談は忘れられない。丸谷氏はたいへん漫談が好きな方である、それも二人の場合より、三、四人いたときのほうが話は面白い。酒飲みの席や鼎談などでは、文字通りに談論風発。まるで隣に新刊のエッセー集が座っているようだ。そばで聞いているだけでも幸せな気分になる。丸谷氏のエッセーを読む楽しさはまさにそこにある。

文学のあらゆる形式のなかで、エッセーはもっとも厄介なものである。欧陽脩はかつて、「晋代には文章といえるものはない。例外はただ陶淵明『帰去来(ききょらい)』の一篇のみ」と言ったことがある。それに倣って、蘇東披も「唐代には文章といえるものはない。例外はただ韓愈『李愿(りげん)の盤谷(はんこく)に帰るを送る』の一篇のみ」とうそぶいた。宋代にはまだエッセーという様式はなく、彼らがいう「文章」も現在でいう随筆とは必ずしも同じではない。ただ、韻律の規則がない散文を指しているのは今と同じだ。現代人の感覚でいえば、散文よりも詩のほうが難しいであろう。しかし、むかし誰も詩について、あるいは史についてこれほど手厳しい批評をしなかった。それだけ文章を書くのが難しい、ということであろう。欧陽脩や蘇東披は文章の名手だからこそ、その難しさを痛感したのかもしれない。

近代のエッセーは新聞や雑誌などのメディアと不可分の関係にある。ジャーナリズムにおける二次的な、装飾的な役割がエッセーの性格を規定した。すなわち、批判ではなく、批評の役割が、天下国家ではなく、森羅万象について面白おかしく書くことが求められる。エッセーは一般に思われているように、たんに紙面や誌面の埋め草ではない。心に楽しみを与える読み物である、一見あってもなくてもよいように見えるが、総合誌も文芸誌もエッセーがないと、何となく単調で重苦しい感じがする。菊池寛的な表現をあえて用いるならば、エッセーは口直しのデザートのようなものである。重厚な論文や連載小説を読んだ後に、ユーモアたっぷりのエッセーを読むと、読者はほっと一息をつく。エッセーは近代メディアの独特の表現リズムを作り出し、また性格の異なる記事のバランスを整える役割を果たしている。

しかし、期待された効果を発揮するためには、相当な工夫が必要である、読者に興味を持たせるためには、まず内容が面白くなくてはならない。ときには、時事的な話題を織り交ぜる必要もある。何よりも、文章が上手で、わかりやすいのが不可欠な条件である。それにユーモアがあれば、もう言うことはない。エッセーは教養を深め、感性に磨きをかけることができても、直接役立つ情報を提供するわけではない。適宜の軽さが求められるが、軽薄に流れてもいけない。

丸谷才一氏のエッセーは、そうした条件をすべて満たしている。興味深い内容と軽やかな文体は、ユーモラスな筆致とあいまって、エッセーの面白さを最大限のものにした。ジャーナリズムの性格を意識し、読者の心理を知り尽くしたからこそできた技であろう。

話題の豊富さには驚嘆すべきものがある。古今東西、天文地理から男女飲食まで、文学歴史、美術音楽から巷談俗説まで、まるで魔法の袋でもあるように、中から題材が無尽蔵に出てくる。これまで多くのエッセー集が刊行されたにもかかわらず、未だに種は尽きそうにない。

この作家はふだん誰も気付かないことを、まったく違った角度から見せることに長けている。常識や思い込みをひっくり返し、あっと言わせるのもお手の物だ。歌の一節でも、野球の一プレーでも、その手にかかると、たちまち格好の題材となる。しかも、ただネタで勝負するのではない。一篇ごとに見事な文章芸で面白おかしく仕上げられている。

興味を引くのは、見出しの付け方である。「お倫ぴくぴく」――何だそれは、と思ったとき、読者はもう本文を読み出している。「再び二日酔ひの研究」は酒飲みが絶対に見逃さない文章で、「蛙の研究」は知的好奇心をそそり、ちょっぴりおかしい。

言いたいことを簡潔な言葉で表現するには、どうやら天分が要るようだ。知人の王さんは日本に来て二年になるが、未だに「ありがとうございました」と「どういたしまして」しか言えない。しかし、その使い方は絶妙で、どんな場面でも応用自在である。彼が作ったギョーザが美味しく、休日にはよく屋台を出している。客が五百円を出して四百円のものを買っても、釣り銭を出さない。「五百円を渡しましたよ」と言うと、大きな声で「ありがとうございました」と返事する。「お釣りをまだもらっていませんが」と促すと、「どういたしまして」と、よどみがない。

王さんと比べるのは失礼だが、丸谷氏の言葉遣いも「省エネ」である。見出しを見ると、「スクープ!」だったり、「役者と女」だったり、「一枝の花」だったり、スポーツ新聞の見出しをハサミで切ったようなものである。題名だけではない。文中でも短い言葉が効果的に用いられている。

もっとも読者の心を楽しませてくれるのは、ユーモアのある文体である。丸谷氏のエッセーを読んで、思わず大笑いすることもあるし、何となくおかしいと感じるときもある。ユーモアの基本は、同じ言葉に二重の意味を持たせることである。二つの意味のあいだに落差が大きいほど、笑いを誘う。もっとも多用されるのは酒落だが、文章ではその手はあまり使えない。丸谷流のユーモアは独特の語り口を通して表現されている。言葉の意味や使い方をずらしたり、同じ表現から違うことを連想させたり、ちぐはぐな話題や言い回しを関連させたりする。その辺の言語イメージの操作はまさに職人芸である。長年来、多くの面白いエッセーを書き続けてきたにもかかわらず、いまもユーモラスな文章を次々と発表している理由はここにある。

意表を突く文章の展開も丸谷流エッセーの特徴である。たとえば「動物誌」。このエッセーは冒頭『聖書』の「潔き獣」と「潔からぬ獣」から語り出している。てっきり西洋人の動物観のことかと思ったら、一転して猫嫌いの話になる、そこから犬と猿の関係に方向転換し、さらに犬と豚の話へと話が進んでいく。ここまでならまだわかるにしても、その後の展開は、さすがに予想しなかったものだ。以前、わたしは丸谷氏のエッセーについて、「起承転結」ではなく、「起承転転転結」だと評したことがある、この文章は「起承転転転結」ではなく、「起承転転転転……」である。文章の三十六計があるならば、「羊頭狗肉の計」を付け加えたい。

むろん、丸谷氏エッセーがすべてそうであるとは限らない。「握手の問題」のように、最後まで同じ話題に終始する場合もある。文章によってさまざまに展開するから、予想がいつも裏切られる。丸谷氏のエッセーを読むのは、氏が運転する車に乗ってドライブするようなものだ。最後にどこにたどりつくかは、着いてみないとまったくわからない。

たとえ文章の細部でも、丸谷才一氏は決して手を抜かない。しかしながら、推敲の跡は一切見せない。いや、もともとそんなことをしていなかったのかもしれない。なぜなら、その文章芸の最たるものは、自然な筆致である。円熟さはもはや孔子がいう「心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」の境地に達している。氏のエッセーが何度読んでも飽きないのもそのためであろう。

今夜も丸谷氏のエッセーで一日を締めくくろう。

【この解説が収録されている書籍】
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010 / 張 競
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010
  • 著者:張 競
  • 出版社:ピラールプレス
  • 装丁:単行本(408ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN-10:4861940249
  • ISBN-13:978-4861940248
内容紹介:
読み巧者の中国人比較文学者が、13年の間に書いた書評を集大成。中国関係の本はもとより、さまざまな分野の本を紹介・批評した、世界をもっと広げるための"知"の読書案内。

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花火屋の大将 / 丸谷 才一
花火屋の大将
  • 著者:丸谷 才一
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(257ページ)
  • 発売日:2005-07-08
  • ISBN-10:4167138174
  • ISBN-13:978-4167138172
内容紹介:
恋人同士は握手してはいけないというお話から、我が国文学に占める蛙の役割の考察まで―硬軟両用、滋味豊富。ご存じ丸谷さんの傑作エッセイ集

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