熱い青春時代描く実名小説の傑作
一九六八年の夏、ジャン=リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」に熱狂した若い映画ファンは早くゴダールの新作が封切られないかとジリジリしていた。カンヌ映画祭を粉砕して商業映画と手を切ったゴダールがその直前にアンヌ・ヴィアゼムスキーという新しい恋人(撮影後に結婚)を用いて五月革命の予感のような「中国女」を撮ったというニュースが報じられていたからだ。だが、肝心の「中国女」はいっこうに封切られなかった。その間にカスケットをかぶって毛沢東語録を読むアンヌ・ヴィアゼムスキーのポスターが一人歩きして、ヌーヴェル・ヴァーグの熱い息吹を若者たちに吹き付けていた。一九六六年六月、バカロレアに不合格となったヴィアゼムスキーは再試験に備えて受験勉強中だった。「男性・女性」を観て感動したというファン・レターを『カイエ・デュ・シネマ』気付でゴダールに送ったところ、ヴァカンス先の南仏の友達の城に電話がかかってきた。「『ジャン=リュック・ゴダールだって』彼女は、信じられないといった様子で、ささやいた」。ゴダールは翌日から頻繁にヴァカンス先に現れ、「バルタザールどこへ行く」のスチール写真を見て以来彼女に一目惚(ぼ)れしていたと告げる。二日後、「(ゴダールは)モンフランに残って、私と夜をともにしたいと告げた。ごく自然に、私は『ええ』と答えた」。
こうして結ばれた二人だが、前途には困難が待ちうけていた。一つにはモーリアックの娘であるブルジョワ的な母が一七歳年上の映画監督と娘が付き合うことを認めなかったこと。
第二はゴダールの愛が性急で、彼女が「付きまとわれている」と感じたこと。「私は彼のしつこさを恨めしく思っていたが、私が望んでいたわずかばかりの自由すら、彼がはっきりと拒んだことをさらに恨めしく思った」。ゴダールがノルマンディーの友達の家まで訪ねてきたときには、思わず「あんたのセーターの色、うんざりだわ!」と叫んでしまう。ゴダールはこのセリフを数カ月後「中国女」の中で彼女に言わせることになる。
追試に合格して郊外のナンテール分校に通いはじめると、ゴダールはアルファ・ロメオで迎えにきたり、通学用にとフィアット八五〇をプレゼントしたりする。その車を見せられた母は大きくため息をつき「このおぞましいプレゼントを受け入れたら、あんたはもう私の娘じゃないわよ」と言い放つ。
このように、本書はブルジョワの女子学生と年上のインテリ男という『悲しみよこんにちは』以来の定石を踏まえた恋愛小説であるが、同時に貴重な映画史の証言でもある。
白黒の予定の「中国女」がマリー・クワント好きのヴィアゼムスキーの提案でカラーになったとか、「中国女」のためにゴダールが自宅のアパルトマンを部屋ごとに違う色に塗り分けてロケに使ったとか、ゴダールファンには堪(こた)えられない細部に満ちている。
また、ヴィアゼムスキーが通っていたナンテール分校のカフェテリアでナンパしてきた赤毛の学生が五月革命の指導者ダニエル・コーン=ベンディットだったとか、追試のためにパーティー会場でいきなり話しかけて哲学教授を頼んだ相手が哲学者フランシス・ジャンソンだったとか、祖父モーリアックが意外に理解があったとか、有名人のポルトレも秀逸。
ゴダールと離婚後、小説家に転じ、文学賞も受賞しているアンヌ・ヴィアゼムスキーが二度とない熱い青春時代を描いた実名小説の傑作である。(原正人訳)