解説
『穴が開いちゃったりして』(石風社)
自分は美沢さんの文章が好きだった――序にかえて
家の近所を歩いていたらギャルが近づいてきてなんか言う、もてているのかと思ったらさにあらず、ただ単にビラを配っているのでもってってくれと言っているだけだ。もてていると思ったのにビラを配っているだけか。馬鹿馬鹿しい。失敬な。と思いつつ自宅に持ち帰りそこいらに放置しておいたところ、家人がこれを発見、なーる程。なんつって読んでいる、なにがなるほどなんさ? と脇から覗くとビラは果たして近所・近辺のレストランガイドで、家人は、「こんなところにスリランカ料理の店ができたので今度機会があったら参りませんか」なんつう。それに対して自分は、「スリランカといえばインドの南、インドの南の方のカレーは辛くないのだ」と何の気なしに言い、言ってから、自分はなんでそんなことを知っているのだ、と考え、考えて愕然とした。自分はそのことをいまから十九年前、美沢真之助(隅田川乱一)さんの文章を読んで知ったのであった。当該の文章は、『穴が開いちゃったりして』にも収録されている、「ムスリム・フードセンター」と題された文章で、これに限らず、自分はこの頃、美沢さんが、「ジャム」「ヘブン」などに書いた、「新宿に出かけた」「大麻取締法はナンセンスだ」「臨済」「狂気と直観、両方取りたいキミのために宇宙人は今も待っている」といった文章を何度も何度も繰り返し読んでいて、その断片が右のごとく頭のなかに残っているのである。
美沢さんの文章がとても好きだった。明るくてポップで、でも主張が明快で、美沢さんの人格そのもののような文章だった。
最初はその「ジャム」という雑誌がきっかけだった。といって直接、会えたわけではなく、これも『穴が開いちゃったりして』に収録されている、「関西パンクをもっと!」という記事のために写真を送れという指令が、当時大阪にいた自分にどこからともなく発せられ、といって写真などない、しょうがないので近所の墓のゴミ捨て場で写真を撮って指定された東京の住所に送ったところ、無事雑誌に掲載され、暫(しばら)くたった後、写真が返送されてきてなかに簡単な手紙が入っていた。美沢さんからだった。いまその手紙はなくなってしまったけれども、「ジャムもはじまったばかりでまだごちゃごちゃしていますがよろしく」といったようなことが書いてあって、最後に会社の名前や雑誌の名前ではなく、美沢真之助、と個人の名前が書いてあった。大きな字で、温かみの感じられる字だった。無名の十六かそこいらの田舎の餓鬼になんて誠実な人だと自分は思った。
それから何年か経って、人の紹介があって、直接、会えるようになり、飲酒をしたり、ときには、朝まで話し込んだこともあった。美沢さんとの会話はきわめて面白く、話が途切れるということは一度もなかった。また、最初に手紙を貰って受けた印象どおりのひとで、十以上年下の、知識・教養にうんと差のあるパンクの餓鬼をちっとも餓鬼扱いしないでひとり前の人間として話を聴いてくれた。
自分は美沢さんと話ができるのが嬉しく、勝手に美沢さんを師とし、人にも、自分の師です、といい、また弟子にしてくださいともお願いしたが、人に偉そうにしたり、威張ったりするのがなにより嫌いな美沢さんは、笑って取りあってくれなかった。
美沢さんに何度も飯と酒を奢って貰った。都立家政という郊外の駅からさらに歩いて三十分もかかる廃工場を改造して作ったようなライブハウスに来て貰ったのをはじめ、何度もコンサートに来て貰った。右のカレーのことや、もっと重要なことについて教えて貰った。美沢さんにはいろいろなことをして貰うばかりだった。
美沢さんと交際したことで書きたいことはたくさんあるけれども、もっとも書きたい、言いたいのは、自分は美沢さんの文章が好きだ、ということ。そして美沢さんの書いたことはいまの時代にさらによりいっそうますます示唆的で、例えば、「報道関係者に告ぐ/おまえらの報道の基準は何処にあるのだ」という文章など、これからも自分は美沢さんの文章に学ぶところはたくさんあるだろうし、みんなもいろいろな発見や気付くことなどが、ちょっとした表現や言いまわしのなかにあるのを知ることになるだろう。ああ。もっといろいろ思い出すことはあるのだけれども、これで終わりじゃないぜ、自分はこれからも何度も繰り返し美沢さんの書いたものを読むだろうから。それでおもったことがあったら自分も書きたい。想いや仕事をいまや、これからの人につなげたい伝えたい、と僭越ながら思っています。
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