解説

『或る女』(中央公論社)

  • 2017/09/15
或る女 / 有島 武郎
或る女
  • 著者:有島 武郎
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(600ページ)
  • ISBN-10:4122020700
  • ISBN-13:978-4122020702
内容紹介:
日清戦争前後、時代の高揚のなかで、自我の芽生えを自覚した葉子。旧弊な社会に反発し、自らの情念に忠実に生きようとした気丈で才知溢れる女性の、多感な性情と苦痛にみちた運命、その肉体と精神の相克を描き、リアリズム文学の傑作と称される不朽の名篇。

大正五年(一九一六年)、彼が三十八歳の時に妻の安子が病死する。同じ年の暮、父親の武も他界する。有島は自分が「生きてゆくべき大道」に投げ出されたと感じる。それがどのような性質の緊張感であったのかは興味深いところだが、死期がそう遠くはないのを覚った時、妻の安子は夫に、

「私はあなたの御成功を見ないで死ぬのが残念でございますけれども、必ず御成功遊ばします事と信じております。凡ての事に打勝って御成功遊ばして下さい。あなたに対しての唯一のお願いでございます」

と書く。陸軍大将、男爵神尾光臣の娘であり、後に歌人として名を成した川田順が、学生時代、強い関心を持ったという美人姉妹の一人であった安子のこの文章には〝明治〟の気風をうかがうことができる。彼女は当時では不治の病の肺結核であったが、これを書いた半年後に落着いて死を迎えたという。

おそらく父親もそうであったと思われるが、妻の安子も有島武郎の弱点を見抜いていたのではなかったか。その欠陥とは、他者への共感に足を取られて世俗的な自分の立場を忘れるという性質を指していたのではないか。農場経営者として彼は自らのそうした性質を押えて振舞わねばならなかった。この苦しさは『カインの末裔』を書いても癒されることはなかったろう。農場解放を決めた際に述べた「小作人への告別」は、同時にそれまでの有島自身の生き方への告別であり、「生きてゆくべき大道」への彼自身の解放であったに相違ない。しかし、世俗的には欠陥に他ならなかった、我を忘れて他者に共感する性質こそ有島の人間としての魅力を構成する美徳でもあったのである。彼の息子であり長じて名優と呼ばれるようになった森雅之には、この有島武郎の性格がその容貌と共に受継がれていたのであったろうか。

こうした性格は、日本画の巨匠尾竹越堂の娘で後に同じ日本画家の浅井県竹の養女となった浅井三井と有島武郎との交遊にもよく現れている。二人は大正八年の頃から親しい間柄になったが親子といってもおかしくない年齢の差があった。彼が結婚問題で悩む三井の相談にのっているうちに深く心が通い合うようになった様子は、全集に収められている書簡からも充分にうかがうことができる。そのなかには、

「私はあなたの素直な性質を深く愛しています。あなたの優しさをうれしいものに思っています」

というような、ほとんど恋文と呼んでもいいような感情の表出が見られる。他界した妻の安子が「凡ての事に打勝って」と述べた心配事は、少くとも対人関係、わけても女性との関係では少しもなくなってはいなかったようである。彼の妻が何をもって「成功」と考えていたのかはあきらかではない。あるいは文学に強く魅かれてゆく傾向を、打勝つべき弱点と認識していたのかもしれない。明治の富国強兵思想、ナショナリズムの雰囲気のなかでは、文学者は余計者扱いを受けてもいたのであったから。作家にとって、しばしば世俗のもっとも身近な代表者として現れる家族は、夫が正業に就き、そこで成功することを望む場合があったのである。

『或る女』はそのような環境のなかで、男女がそれぞれ自分に納得できる生き方を求めて多様な関係を形成し、確執が生れ、性のよろこびと哀しみが、打算と裏切りが、誤解と憎悪が、世俗との闘いとその敗北が描き分けられてゆく小説である。

この作品のなかで、早月葉子は、まず我儘な、我の主張と性のよろこびを追求する美貌の主人公として登場する。この作品の新しさは、かつて宮本百合子が指摘したように「男のように肉体で男に魅かれる女」が主人公であるところに現れている。人間としての女性が文学作品に肉体を持って出現するのに、明治維新後五十年の年月が必要であったことになる。その意味では『或る女』は第二次大戦後、「日本帝国」の敗北によって社会構造が根本的に変るまで、家族制度や天皇制が崩壊し、治安維持法が消滅し、思想言論の自由が生れるまで登場しにくかった文学作品の先駆的な達成と言うことができよう。今日『或る女』を読んで驚くことのひとつはそのことである。

その早月葉子が体現している思想的側面は翌年(大正九年)、『惜みなく愛は奪う』に展開してゆくのだが、ここには小説を書くことによって思想が深まり、思想が深まることによって更に新たな文学作品が誕生するという、有島武郎の軌跡を見ることができる。早月葉子は感情と官能を優先させる自由な生活による孤立から自ら選んだ孤立へ、肉体的反乱から意思的な反逆へと自らの思想を形成してゆくのである。その意味ではこの作品は思想小説として読むことも可能である。瀬沼茂樹が「島崎藤村の『破戒』の塁を摩し、フローベル『ボヴァリー夫人』、イプセン『ヘッダ・ガープラー』に比肩する」と評したのは、当を得ていると言うことができる。

この作品を、先行する『或る女のグリンプス』と比較考察することは、有島武郎の作家としての成熟、作品としての深化の過程を辿る上で興味深いことだが、早月葉子という女性の基本的性格は変っていない。人物像の彫りが深くなったのは、作者の日記によれば、H・エリスフ『性の心理学的研究』が貢献しているという。しかし、こうした記述は、心理学の著作などに接することによって作者の記憶のなかに幾人かの女性との交遊の情景が蘇った、その時の相手の言葉の抑揚や息づかい、目の動き、仕草などが持っていた意味が明らかになってきた、という具合に理解すべきであろう。

何度も離婚を考えたという妻の死後、有島の身辺には前記の三井以外にも、神近市子、与謝野晶子、望月百合子といった、才能と存在感で傑出していた女性達が顔を見せている。また、彼の妻の死を素材とした「死とその前後」が芸術座によって上演された際(大正七年十月)、妻A子を演じた松井須磨子の舞台稽古などを見て有島は強い印象を受けている。その松井須磨子は大正八年一月五日、前年病死した島村抱月の後を追って自殺する。それは有島が『或る女』の前篇の改作を脱稿する直前、後篇の想を練っている時のことであった。彼が松井須磨子に、性格ゆえに破滅への道を突進せざるを得ない傑出した女性像を見ていたことは間違いない。彼が知り得た幾人もの女性からの印象が早月葉子の形象を深くしているのである。

(次ページに続く)
或る女 / 有島 武郎
或る女
  • 著者:有島 武郎
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(600ページ)
  • ISBN-10:4122020700
  • ISBN-13:978-4122020702
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日清戦争前後、時代の高揚のなかで、自我の芽生えを自覚した葉子。旧弊な社会に反発し、自らの情念に忠実に生きようとした気丈で才知溢れる女性の、多感な性情と苦痛にみちた運命、その肉体と精神の相克を描き、リアリズム文学の傑作と称される不朽の名篇。

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