著者が前作『現代韓国の思想』を世に問い、それが韓国語に翻訳された2000年に、わたしはたまたまソウルの大学で教鞭を取っていた。韓国の知識人たちにとってこうした、外部からの眼差しによる思想的探求は予想外のことであったらしい。しばらくの間は、やれ自分がどの派に分類されているとか、自分の名前が出ていないといったレヴェルで、ちょっとした物議が生じていたことを記憶している。
『ソウルで考えたこと』はその続編ともいうべき書物であり、著者がロンドンとソウルに滞在した体験を踏まえて執筆された9編の論文から構成されている。日本の教科書騒動から北朝鮮の日本人拉致まで、また韓国における日本現代思想の受容まで、さまざまな問題が論じられている。もっともここでは「韓国にとって現代思想とは何か」という前半部に焦点を当てて、わたしの感想を記しておきたいと思う。
韓国社会が解放後、急速な変貌をとげてきたことはすでに周知のことである。とりわけ90年代後半のIMF危機以降、社会のなかの矛盾がいよいよ激化し、論壇においても左右の対立がより過激な形で露出してきた。日本同様、西欧の現代思想の翻訳天国であるこの国では、思想家の新旧交替が目下急速に行なわれようとしていると、著者は語っている。反共親米親日という体制のなかで「主体的」に葛藤を続けてきた4・19世代が後退し、その代りに民族主義と国家主義を否定的にとらえる新傾向が登場してきた。その度合いをめぐって、本書は細かな見取り図を提出している。
まず韓国にとって現実の課題とは、過去の親日派の清算と統一国家の樹立であるとする、従来の立場がある。それに対して、統一が実現不可能なユートピアにすぎない以上、日常生活に蔓延しているミクロなファシズムへの抵抗運動を組織すべきだという一派が存在している。しかもこの一派は保守の大メディアである『朝鮮日報』とも親しい。
ポストモダニティをめぐる論議は90年代に本格化した。近代とは西欧の説く普遍性のことなのか、それともこの普遍性そのものが植民地主義を前提とした西欧の産物にすぎないのかという論議がまず起きた。近代を越えようとしても、そもそも韓国に成熟した近代的主体が形成されていたためしがあったのかという批判が、これに続いた。いや、近代をそうして段階発展的に捕らえることこそが誤りで、非西欧の近代主体を宗主国に隷属させる形で成立させたことこそが、近代の正体であったという論が生じる。しかし拷問と死を恐れずに現実の国家の暴力に抵抗してきた者にとっては、そうした論議のいっさいが意味のない高みの見物にしか思えない。それに脱近代や脱植民地主義を論じるにあたって、元宗主国が作り出した理論的枠組に依拠しなければならないというのは、どのようなことだろう。しかし、だからといって、ここで民族主義に回帰するならば……。
韓国では脱植民地主義の理論化は、これからの課題である。だが著者は、国家や民族といった概念を相対化し、さまざまに思想が多元化してゆく現状のダイナミズムに、日本とははるかに異なった風土を発見し、それを肯定的にとらえている。植民地朝鮮の文学的ノスタルジアに耽る日本の文芸評論家や、日本人しかパリの現代思想を理解できないと素朴に信じている日本のフランス文学者は、本書を一読して落鱗の念をもつことだろう。前作に続いて労作である。
【この書評が収録されている書籍】