書評

『ウィトゲンシュタインと同性愛』(未来社)

  • 2017/10/01
ウィトゲンシュタインと同性愛 / ウィリアム・W. バートリー
ウィトゲンシュタインと同性愛
  • 著者:ウィリアム・W. バートリー
  • 翻訳:小河原 誠
  • 出版社:未来社
  • 装丁:単行本(347ページ)
  • ISBN-10:462401099X
  • ISBN-13:978-4624010997
内容紹介:
本書の出現によってウィトゲンシュタインはあらたに読みかえられる。スキャンダルを惹きおこした賛否両論の書の全貌。
一九七三年に出版されるや、たちまち大きな反響を呼んだ問題の書の翻訳である。その理由は、書名から察せられよう。原題は『ウィトゲンシュタイン』だが、《本書がひきおこした論争からすれば、この書名こそもっともふさわしいと判断した》(訳者あとがき)。小河原氏が、『同性愛』をつけ加えた。

ヴィトゲンシュタインが同性愛者であった事実に目をつぶったら、生涯にわたる彼の苦悩を理解できなくなってしまうというのが、著者バートリーの主張である。けれども、同性愛をじかに論じた部分は、書名から予想されるほど多くない。《約四、五頁にわたってごく手短に言及されている》(二一三頁)にすぎない。それよりも《本書の眼目》は、《彼の「失われた年月」、すなわち、小学校教師時代》(訳者あとがき)に焦点をあてたところにある。

ヴィトゲンシュタインには、『論理哲学論考』を執筆した若い日々から、ケンブリッジに戻る四十歳までの間に、空白の十年間があった。彼はこの期間、オーストリアの寒村で小学校の教師を務め、そのあと園丁をしたり、姉の邸宅の設計・建築にたずさわったりしていた。哲学にまったく興味を失った時期として、これまで人びとの関心をひくことがなかった。

著者バートリーが一九六七年に、たまたまその寒村をたずね、いまは年老いた彼の教え子たちに出逢ったことが、本書を生むきっかけになった。村人たちは、教師ヴィトゲンシュタインのことをよく覚えていて、興味ぶかい証言をした。その結果、著者は、この時期こそ、前期(論理学研究の時代)と後期(言語ゲームの時代)とをつなぐ、きわめて重要な時期であるとの結論に達する。

たとえば「嘘つきのパラドクス」を、ヴィトゲンシュタインは子供たちに教えている。また、彼の教育法は、当時オーストリアで試みられていた、ゲシュタルト心理学の流れをくむカール・ビューラーの学校改革運動と軌を一にしている。岩石を採集に山野を歩き、模擬装置をこしらえ、『小学生のための単語帳』をこしらえたヴィトゲンシュタインの実践は、この運動の精神を体現するものである。

こう考えてくると、『哲学探究』の言語ゲームの議論も、この延長上で理解できそうだ。すなわちそれは、《児童言語心理学の概要を展開する試み》、《子供は母国語をどう習得するのかという問題に焦点をあて》(一七三頁)たものなのだ。

著者バートリーは、ヴィトゲンシュタインその人の人格に尊敬の念を隠さないが、彼の哲学には極めて批判的である。批判のすべてが納得できるものとは思わなかったが、本書が、ヴィトゲンシュタインについて考える場合、必ず参照すべき一冊となるだろうことは確かだ。

最後に、同性愛に話を戻そう。どこまでその証拠があがっているのだろうか。今回の日本語版には、一九八五年に書かれたあとがき「ウィトゲンシュタインと同性愛」も訳されていて、初版への批判に対する著書の反論も読むことができる。でも証拠になるのは、未公開だった初期草稿の一部に《自慰行為……の記録》があるというくらいで、ほんとうに同性愛で悩んだとされる一九二八、二九年以降の時期、「プラーター公園の……彼を性的に満足させる用意のあった粗野な若者》(五二頁)について、具体的な材料がなにもあがっていない。真相は闇の中、ということなのだろう。

【この書評が収録されている書籍】
書評のおしごと―Book Reviews 1983‐2003 / 橋爪 大三郎
書評のおしごと―Book Reviews 1983‐2003
  • 著者:橋爪 大三郎
  • 出版社:海鳥社
  • 装丁:単行本(382ページ)
  • ISBN-10:4874155421
  • ISBN-13:978-4874155424
内容紹介:
1980年代、現代思想ブームの渦中に登場以来、国内外の動向・思潮を客観的に見据えた著作と発言で論壇をリードしてきた橋爪大三郎が、20年間にわたり執筆した書評を初めて集成。明快な思考で知られる著者による、書評の最良の教科書。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

ウィトゲンシュタインと同性愛 / ウィリアム・W. バートリー
ウィトゲンシュタインと同性愛
  • 著者:ウィリアム・W. バートリー
  • 翻訳:小河原 誠
  • 出版社:未来社
  • 装丁:単行本(347ページ)
  • ISBN-10:462401099X
  • ISBN-13:978-4624010997
内容紹介:
本書の出現によってウィトゲンシュタインはあらたに読みかえられる。スキャンダルを惹きおこした賛否両論の書の全貌。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

週刊エコノミスト

週刊エコノミスト 1990年8月7日

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
橋爪 大三郎の書評/解説/選評
ページトップへ