コーヒー・ハウスからインターネットへ
ハーバーマス(一九二九―)独の哲学者、社会学者。『公共性の構造転換』は「市民的公共性」の誕生と変貌の歴史社会学。†コーヒー・ハウス
チャールズニ世(在位1660ー85年)からジョージ一世、二世(在位1727ー60年)にかけてのロンドンはコーヒー・ハウスの時代であった。一八世紀はじめにロンドンだけで、コーヒー・ハウスが二千軒あったとも、三千軒あったともいわれている。五百人もの常連客をかかえるコーヒー・ハウスもあった。コーヒー・ハウスは、コーヒーや紅茶を飲みながら、人々が対等に各種の話題について語り合う社交場兼情報センターだった。といっても女性は排除されていて客は男性ばかりではあったが。コーヒーの香りと紫煙、人いきれの中で、株価の上がり下がりについて、文芸や最近の説教について、さらには政治が話題になった。誰かが演説をすると、店中の客が寄り集まってきた。身分横断的で自由闊達な談論は、為政者への反逆の火薬庫だったから、政府はコーヒー・ハウス閉鎖令を出したが、非難の嵐ですぐに撤回されてしまった。
イギリス史家トレヴェリアンは、コーヒー・ハウス文化についてこういっている。政府と国教会に反対するものであれ、またその敵をののしるものであれ、「イングランド国民の全般にわたる言論の自由」こそが「コーヒー・ハウスの生活の精髄」であった(『イギリス社会史2』みすず書房)、と。
†市民的公共圏の誕生と変容
このようなコーヒー・ハウス文化は、本書がいう「市民的公共圏」の理念型に近いものである。市民的公共圏とは、政治や経済、文化などさまざまな問題について、私民=市民が平等に論議し、公権力と折衝するための輿論(よろん)=公論を形成する空間である。市民的公共圏の前史は、都市国家ギリシャにある。そこでは、自由な市民の国家の生活圏(ポリス)と各個人固有の家(オイコス)の生活圏とが画然と区別され、公的生活は広場(アゴラ)を舞台に「対話」と「共同の行為」として展開した。しかし、中世封建世界においては、領主の家計と領地の会計が分離していないように、公共圏と私生活圏は融合してしまっていたから、ギリシャ的公共性の余地がなかった。かわって独特の「具現的公共性」が立ち上がった。君主や貴族、聖職者がその地位と権力の偉大さと栄光を、儀式や祭典で誇示する「代表的具現」という公共性である。
代表的具現は「公共性の圏内でのみ行なわれうるのであって、私事としての代表的具現というものは存しない」。そして代表的具現は、公衆の前で臨御する君主の人身によって、「或る不可視の存在を可視的にする」という趣旨のものである。(中略)君主とその議会がとりもなおさず国そのもの「であるのであり」、これを単に代理するものではないかぎり、彼らは或る特殊な意味において代表することができる。すなわち彼らは、彼らの支配権を人民のためにではなく、人民「の前で」具現するのである。
代表的具現においては、民衆は、王や貴族などが栄光を呈示するときの舞台装置にすぎない。民衆は排除されることによって代表的具現という公共圏の一部を構成した。
しかし、一六世紀から封建的諸権力の解体がはじまる。宗教改革は教会権力から分離した内面の自由という私的自律圏を生む。君主の公的予算と私的家政が分離され、近代的官僚制(恒常的な行政)と常備軍によって公権力が制度となる。かくて、代表的具現の公共圏の基盤である私的圏域と公的圏域の融合が崩れる。代表的具現の公共性は、国王の宮廷へと圧縮され、華麗で際立った存在になるが、それは私的生活圏と公的生活圏が分岐する中での租界現象である。
国家に代表される公権力の領域が輪郭をもつことで、公権力=国家の客体としての公衆が生まれるが、そうであればこそ私人の領域が自覚化され、私人の糾合(きゅうごう)としての、批判する公衆の誕生の契機となる。こうして、はじめにふれたコーヒー・ハウス、そしてサロンやクラブに代表される、政治的機能をもった市民的公共圏が誕生する。しかし、すぐさま政治的機能をもった市民的公共圏が誕生したわけではない。まずは「文芸的公共圏」が生まれる。
文芸的公共圏とは、文学作品をめぐっての談話による自己啓蒙と主体形成の場である。そこで確立された制度的基準はつぎの三つである。(1)社会的地位を度外視した対等な議論という「平等性」、(2)文学や哲学、芸術作品をめぐっての教会的・国家的権威による解釈独占権を排し、自立的かつ合理的な相互理解のなかで解釈する「自律性」、(3)討論対象の入手と議論のための資格(財産・教養)があれば、すべての私人が「公衆」として参加できる「公開性」の三つである。
こうした制度的基準をもとに、新聞や雑誌などの政治ジャーナリズムが簇生(そうせい)し、そうした媒体によって私人は公衆に変成し、公権力に対して批判的な政治的公共圏が成立する。「読書する公衆」(文芸的公共圏)は、「論議する公衆」(政治的公共圏)になる。以上が、一八世紀から一九世紀初頭にかけてのイギリスやフランス、ドイツにおいておこった事態である。
それまでは、為政者に対する反対は、内乱などの暴力によってのみ可能だったが、いまや為政者は公論というあらたな政治的公共圏の審廷で支配の正統性を示さなければならなくなった。公論を媒介に与党と野党との持続的論争がおこなわれる。
議会で屈服した少数派は、いつでも公共性の中へ退却して、公衆の判断に訴えることができたし、買収で結束した多数派は、彼らがそなえる権威(authority)を、反対派が彼らに否認する理性(reason)によって正統化する義務を負わされる。
しかし、一九世紀末からの社会福祉国家時代(後期資本主義)になると、市民的公共圏の基盤となった市民社会と国家の分離に逆の作用が働き、国家と市民社会は再融合しはじめる。社会福祉政策などによって国家が市民社会に積極的に干渉し(「社会の国家化」)、他方では、経済システムが拡大し、社会保険やサービスの主体が企業になるように、国家機能が民間機関に委譲される(「国家の社会化」)からである。市民的公共性の基盤が掘り崩されていく。
†操作的公共性の蔓延か
同時にマスメディアの驚異的発達と参入資格の切り下げによって公衆が拡張されることによって「凡庸な多数者の支配」や「画一化を強制する」公共圏の暴力化が生じる。大衆の「好意的受動性」を確保するためにパブリシティが操作され、市民的公共性には、代表的具現という公共性の復古、つまり公共圏の「再封建化」が生じる。討論もショーとなり、その示威機能の優越の前で批判機能を失っていく。昨今の討論のワイドショー化を予言するような指摘さえある。本書が刊行されたのは一九六二年だが、一九九〇年の新版につけくわえられた著者の長文の「序言」の最後には、マスコミュニケーションの電子化と民衆的意思決定とのかかわりのゆくえについての悲観と楽観あい混じる可能性が示唆されている。社会福祉国家とネオ・コーポラティズム(巨大利益集団が政府と提携することで政策運営や利害調整がなされる政治システム)は公共性を構造転換させたが、インターネットに代表される電子的公共圏は、コーヒー・ハウスの現代的な機能的等価物となりうるのか。それは操作的公共性のたんなる拡大なのか。それともそれらとは全く別のあらたな公共性の出現なのか。あらためて問われなければならない。
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