解説

『大菩薩峠〈9〉』(筑摩書房)

  • 2017/09/17
大菩薩峠〈9〉 / 中里 介山
大菩薩峠〈9〉
  • 著者:中里 介山
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(452ページ)
  • 発売日:1996-04-00
  • ISBN-10:4480032290
  • ISBN-13:978-4480032294
内容紹介:
お雪に伴われ信州白骨の温泉へ赴いた机龍之助は、しばしの安息を得て目を癒す日々。その龍之助を仇とねらい旅を急ぐ宇津木兵馬。一方お銀様は、慕い追う龍之助の探索をいったん断念、故郷の有… もっと読む
お雪に伴われ信州白骨の温泉へ赴いた机龍之助は、しばしの安息を得て目を癒す日々。その龍之助を仇とねらい旅を急ぐ宇津木兵馬。一方お銀様は、慕い追う龍之助の探索をいったん断念、故郷の有野村へ向かった。時を同じく、がんりきの百蔵に茂太郎をさらわれ、うらぶれた独り旅を行く弁信。また米友とともに京大坂をめざし、医師道庵が街道をゆらゆら歩む。中山道筋に展開する道中模様…「流転の巻」「みちりやの巻(一~十三)」を収録。

イギリスやフランスの通俗的なゴシック・ロマンでは、幼い頃の事故が原因で顔がケロイド状に潰れているため、性格が歪み、美しい顔の女中をいじめるのを生きがいにしているというお姫様というのは決して珍しい人物設定ではない。というよりも、もっとも、ありふれたパターンのひとつといっていい。あるいは、英語を相当に読めた中里介山は、英訳を通してガボリオやボアゴベーなどの伝奇小説に親しんでいたのもしれない。十分ありえる仮説である。

だが、お銀様が素晴らしいキャラクターであるのは、机竜之助と同じく、この人物が、顔の醜さという事実だけではとうてい説明のつかない複雑怪奇な性格であるばかりか、年中、それこそ「ウッソー」と叫ぶほかないような思い込みの激しい突飛な行動に出ていながら、リアリティー欠如とは非難できないような不思議な実在感をそなえているからである。土蔵の中で、針で己の腕を突き刺し、その血を墨にして写経をしていると書かれていても、お銀様ならさもありなんとだれもが納得してしまう。また、悪女塚の建立を思い立ち、古今東西の悪女の伝記をひもとくくだりも、胆吹山麓に理想王国を建設しようと邁進する部分も、この端倪すべからざる性格であれば、これぐらいのことはして当然、いや、本当はもっとすごいことをしてほしいという気持ちにさえなってくる。つまり、お銀様という登場人物は、机竜之助と並んで、いや竜之助以上に、物語を先へ先へ進ませ、どれほど思いがけない筋の急展開もすべて必然的なものに見せてしまう「駆動的キャラクター」なのである。モリエールの喜劇が「性格喜劇」といわれるように、『大菩薩峠』は、前半は机竜之助、後半はお銀様という登場人物の特異な性格(キャラクター)によって駆動される「性格小説」、しかもとびきり「変なキャラクターの小説」なのである。



しかし、言葉を正確に使うという立場からすると、お銀様をつかまえて、これに「変な」という形容詞をかぶせるのは、いささか穏当を欠くかもしれない。お銀様の性格の一番の特徴は、その思い込みの激しさ、激越さにあるからだ。はた目には「変に」しか見えなくとも、お銀様自身は、己の論理を信じてただ真っすぐに突き進んで行ったにすぎない。お銀様は、顔のケロイドのために性格が歪んでいるというのではなく、逆に、顔という外部への窓口をうしなったために、思考の論理がひたすら内向して直線的なものになったと見たほうがよい。

では、『大菩薩峠』をして、この世に類のない「変な小説」にしているもっとも「変な」キャラクターはだれなのだろうか? 外輪船「無名丸」に乗り組んで南洋の無人島にユートピア建設を目指す元旗本駒井甚三郎か、それとも、なんの目的もなくただただ馬鹿騒ぎだけを追求する呑んだくれの名医道庵先生か? あるいは、際限もなくおしゃべりを繰り返す盲目の僧弁信か? はたまた、なぜか現れてほしいときに必ず現れる名犬ムクか?

もちろん、これらのキャラクターのいずれが欠落しても、『大菩薩峠』は『大菩薩峠』でなくなっていたかもしれない。しかし、『大菩薩峠』に時代を超越させるほどの「変てこパワー」を与えたのは、こうした善意の登場人物ではない。やはり、この重要な役どころは悪玉、しかも、とっておきの悪玉でなくてはつとまらない。もちろん、神尾主膳その人である。

神尾主膳。いかにも悪党らしい、いい名前だ。しかし、この男も「間の山の巻」でチラリと姿を見せたときには、たんなる坊っちゃん育ちの道楽者のお侍で、これほど個性豊かな悪役になれるとは予想もつかなかった。甲府の勤番で、駒井能登守を陥れようと陰謀を巡らしているときも、たいしてスケールの大きい悪党とは見えない。おそらく、ひとたび酒が入ると酒乱になるのは甲府勤番になる前からのことだろうが、以前には、ハメをはずしたといっても、それは、酒の席に呼んだ女たちに不俘な振る舞いをする程度ですんでいた。

ところが、ある人との出会いを境に、神尾主膳の人格の中に潜んでいたデーモンが騒ぎ始める。神尾のデーモンを呼び起こした人、それは、机竜之助でも駒井能登守でもない。お銀様である。

神尾主膳は、なぜ、お銀様との結婚を承知したのか? 自分の口から言っているようにお銀様の持参金が目当てだったのか? 物語の表面上はそういうことになっている。しかし、実際は物語のもっとも深いところ、つまり、作者の中里介山さえ知りえないような深層において、神尾主膳とお銀様は強い運命の糸で結ばれているのである。

神尾主膳の酒乱が本格的になったのは、駒井能登守の反対でお銀様との婚約が不成立になった腹いせに、邸内に監禁していた幸内(お銀さまの召使)を、駒井能登守に見立てて井戸端で弄り殺しにしようとした夜からである。

(次ページに続く)
大菩薩峠〈9〉 / 中里 介山
大菩薩峠〈9〉
  • 著者:中里 介山
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(452ページ)
  • 発売日:1996-04-00
  • ISBN-10:4480032290
  • ISBN-13:978-4480032294
内容紹介:
お雪に伴われ信州白骨の温泉へ赴いた机龍之助は、しばしの安息を得て目を癒す日々。その龍之助を仇とねらい旅を急ぐ宇津木兵馬。一方お銀様は、慕い追う龍之助の探索をいったん断念、故郷の有… もっと読む
お雪に伴われ信州白骨の温泉へ赴いた机龍之助は、しばしの安息を得て目を癒す日々。その龍之助を仇とねらい旅を急ぐ宇津木兵馬。一方お銀様は、慕い追う龍之助の探索をいったん断念、故郷の有野村へ向かった。時を同じく、がんりきの百蔵に茂太郎をさらわれ、うらぶれた独り旅を行く弁信。また米友とともに京大坂をめざし、医師道庵が街道をゆらゆら歩む。中山道筋に展開する道中模様…「流転の巻」「みちりやの巻(一~十三)」を収録。

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