解説

『巴里からの遺言』(文藝春秋)

  • 2017/09/22
巴里からの遺言 / 藤田 宜永
巴里からの遺言
  • 著者:藤田 宜永
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(329ページ)
  • 発売日:1998-12-00
  • ISBN-10:416760602X
  • ISBN-13:978-4167606022
内容紹介:
「エトランゼーの自由は甘美な毒」戦前のパリで放蕩の限りを尽くした祖父の手紙に導かれ、僕は70年代のパリにたどりついた。そこで出会った日本人は、イカサマ賭博で食いつなぐ元プロレスラー、高級娼婦となった女子留学生、贋作専門の画家崩れ、謎の剣術指南…。旅情あふれる日本冒険小説協会最優秀短篇賞受賞作。

パリの風来坊日本人

一九九八年現在、大学のフランス文学科はもっとも不人気な学科の一つで、第二外国語のフランス語履修者も激減している。女性誌はそれでもパリ特集を組むが、売れ行きは以前ほどではないという。この世紀末において、日本人にとって、パリもフランスもかつてもっていたような魅力を失ったかのように見える。

だが、一九七〇年代にはちがった。パリは、本当に輝いていた。男も女も、とりわけ、文学や芸術に入れあげた文科系の男たちはパリに強く強く惹きつけられていた。ヌーヴォー・ロマンはまだ元気で、構造主義が時代の脚光を浴び、映画でもヌヴェル・ヴァーグが新作を送り出していた。全共闘の大きなうねりが一九七二年の連合赤軍事件で完全に終焉してしまった日本のくすんだ日常から眺めると、パリはまぶしくて目を開けていられないくらいの輝きを放っていた。

そんな時代の文科系の若者にとって、極端なことをいえば、選び取るべき人生の選択肢は「①パリに行く②日本で就職する」という二つしかないようにさえ思われた。ベトコンを焼き殺しているアメリカに行くという選択肢はそもそもありえなかったし、父親たちがさんざんに悪行を重ねたアジアに目を向けるという思考法は存在しなかった。こんなことを書いても信じてはもらえないだろうが、強いられた労働を拒否し、自由を選び取るということはパリに行くというのと同義だったのである、

かくして、青年たちはパリを目ざした。大学を卒業した者も、ドロップアウトしてしまった者も、シベリア鉄道で、あるいは片道二十四時間もかかる南回りのエジプト航空やパキスタン航空でパリにたどりつこうとした。留学で箔をつけるとか、なにかを学びとって役立てようと確たる目的があったわけではない。自由の都パリの空気を吸いたかった。ただ、それだけである。おそらく、こうした無目的なパリ行きが生まれたのは、戦後ではこの時期が初めてではなかったろうか。外貨持ち出し制限のあった一九六〇年代までは、留学か、さもなければ視察、いずれにしろなにかしらの目的があったはずだ。

しかし、ことを戦後に限定せず、戦前に目をむけると、意外なことに同じような風来坊のパリ留学がはやっていた時期があるのだ。一九二〇年代後半から三〇年代の前半にかけて、つまり昭和の初年から十年くらいまでの時期、漱石や鴎外でもなく、荷風や光太郎でもない、ただの憧れとしてのパリ遊学が一つ流行になっていた感すらある。具体的に人名をあげれば、石黒敬七や渡辺紳一郎、あるいは松尾邦之助など、戦後のラジオ番組「とんち教室」やテレビ番組「私の秘密」などで活躍した一九〇〇年前後に生まれたモボ・モガ世代がそれだが、おそらく彼らは氷山の一角で、パリを見て死にたいというだけの動機で横浜から船に乗った若者が相当数いたにちがいない。身近でもこうした人に何人か会ったこともある。

これがなにを意味するかというと、戦後日本は、敗戦から二十五年をへてようやく戦前の昭和十年の文化的・心理的水準にまでたどりつけたということである、重苦しい日常の対蹠(たいせき)点にある自由の幻影の都としてのパリに憧れる。この一点で、戦前が戦後と結びつく。



本書が仕掛けとしてすぐれているのは、昭和二年(一九二七)にサーカスの団員としてモスクワに渡り、そこからパリに流れて昭和十二年(一九三七)まで生きていたらしい祖父忠次が残した手紙という一本の糸で、戦前と戦後におけるパリの風来坊日本人の肖像を重ね合わせたことにある。両方に共通するのは、自由の「幻影」としてのパリに憧れながら、当然のようにその幻影に欺かれ、しかし、それでもなお、パリのなにかしらに魅せられてとどまりつづけるその姿勢である。

謹厳実直な父親に育てられ、高校の物理の教師になった主人公は、妻子を捨ててパリで消息をたった祖父の手紙を未知の人から渡されたことがきっかけとなり、二十六歳のときに教師をやめてパリに旅立つ。祖父の足跡を追うためというのは、動機として薄弱すぎるじゃないかという読者に対しては、この時代には、さきほどあげた選択肢「①パリに行く②日本で就職する」が若者の思考回路に組み込まれていたとだけいっておこう。仕事をやめたら、もう一つの選択肢「パリに行く」しか残されない。祖父の足跡を追うというのは立派な動機づけだったのである。

(次ページに続く)
巴里からの遺言 / 藤田 宜永
巴里からの遺言
  • 著者:藤田 宜永
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(329ページ)
  • 発売日:1998-12-00
  • ISBN-10:416760602X
  • ISBN-13:978-4167606022
内容紹介:
「エトランゼーの自由は甘美な毒」戦前のパリで放蕩の限りを尽くした祖父の手紙に導かれ、僕は70年代のパリにたどりついた。そこで出会った日本人は、イカサマ賭博で食いつなぐ元プロレスラー、高級娼婦となった女子留学生、贋作専門の画家崩れ、謎の剣術指南…。旅情あふれる日本冒険小説協会最優秀短篇賞受賞作。

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