『巴里からの遺言』(文藝春秋)

しかし、いったんパリに居着いてしまうと、日本での動機づけが意味を失うのもまた明らかである。「そうこうしているうちに、祖父の足跡を追う情熱は薄らいだ、探索が何の進展も得られなかったせいだろう。そして、自分がなぜ、パリにいるのかすらも分からなくなっていった」。語学学校に通ううち、そこで知り合った日本人のコネをたどって、なんとか生活の手段を見つけるようになる。といっても、それはしょせん、日本人社会の末端でそのおこぼれにあずかるような便利屋稼業でしかない。これではいけないと思うが、いっぽう祖父のいう「エトランゼーの自由は甘美な毒」にとらえられて帰国を一日延ばしに延ばす。ときに、思い出したように祖父の手紙を読んでは足跡を追う。

すると、まるで、祖父の導きにでもあったように、さまざまな理由からパリに止まり続けている奇妙な日本人に出会う。パリにながれてきたプロレスラー、フランス人に育てられた戦災孤児の堕胎医、娘に会いたくてパリまでやってきた左官屋、戦前にパリで子供時代を過ごした剣道指南、高級娼婦になった女子留学生、贋作専門の画家崩れ、だれひとりとして功なり名を遂げた日本人はいない。剣道指南を除くと、いずれも、なんでパリにいるのか自分でも説明がつかないが、さりとてパリを去ることもできない、しかし潔くパリの亡命者となる道も選べない人たちだ。ここで、ふたたび、彼らと祖父と自分とが重なりあって、「パリの日本人」のあやふやな輪郭が、あやふやなりに明らかになる。じつは、ここにこの短編集の本当の魅力があるのだ。

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もし、物語としての完成度を優先するなら、「パリの日本人」のあいまいさを捨てて、因果物めいた分かりやすさを取るべきだろう。だが、それでは、パリと日本人との本質的な関係が網の目から抜け落ちてしまう。パリに精気を吸い取られたように、腑抜けになりながら、それでもパリを離れられない日本人。パリにある限度を越えて居残った日本人は、かならずこうなるといっていい。そうなりたくなければ、限度の直前で日本に帰ってくるほかない。しかし、それでは、本当のパリを見たとはいえないのである。たんに、パリの表面を掻（か）い撫（な）でたにすぎないからこそ帰還できたのだ。ヘンリー・ミラーのように、あるいはリルケのように、パリの本質に触れ、なおかつ、こちら側に戻ってくることは、どうやら日本人には不可能のようだ。「①パリに行く②日本で就職する」の第一回選択で、①を選んでしまった者は、もう一度「①パリに残る②日本に帰る」の二者択一を迫られることになる。今度も、中間項はないのである。

ここで、ようやく祖父忠次の手紙が何度も引き合いに出されるのか、その意味がわかってくる。

すなわち、ついに日本に戻ることなく、行ったきりになってしまった忠次の手紙は、まだ、こちら側に未練を残す「僕」にとって、誘惑の手紙であると同時に警告の手紙でもあるのだ。「パリの日本人」になるか否か、祖父の手紙の導きでさまざまな日本人に会った「僕」は、そのたびに、実例に照らして、どちらを選ぶべきか迷うことになる。しかし、最後は、意外なものが決め手になる。それもまた忠次からの贈り物だったのである。

日本人にとってのパリ体験は、臨死体験に似ている。向こうに行ってしまった人は記録を残さず、帰還した人の証言は信憑性に欠ける。だが、なかには、よくぞ帰還できたと思わせるような迫真の臨死体験もある。本書は数少ない、そうした貴重なパリ体験の一つなのである。

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