著者もまたそのひとりだ。1974年生まれ、99年、出張料理集団「東京カリ~番長」を結成。カレーに関する書籍を四十冊以上刊行しているカレー研究家。カレーの三文字があるところ、そこには必ず「水野仁輔(じんすけ)」の名前が見つかる。無類のカレー愛とともに実践を続けてきた著者が、幻の「黒船カレー」を探す旅に出たと聞いて、読まずにはおられない。
「黒船カレー」とは、1853年の黒船来航による開国を契機に、イギリスからもたらされたカレーのこと。日本のカレーの父というべき存在だ。著者は、文献の記述に従って当時のカレーを再現してみたものの、その全貌は謎のまま。業を煮やし、日本各地十カ所の港町を巡ってみるのだが、やはりこれといった成果は掴(つか)めない。しかし、徒労感が情熱に火をつけた。国内にいては「黒船カレー」に出会えない、イギリスに行かなければ。そして2013年、三カ月の猶予期間を妻に約束し、単身ロンドンに旅立つ。
本書は、カレーに魅せられた男のビルドゥングスロマンだ。これまで会社員とカレー研究を両立させてきたけれど、どうやら人生の新たな扉を自分の手で押すときがやってきた。三十代最後の年、妻子を日本に置いたままイギリスをはじめヨーロッパ徘徊(はいかい)。来る日も来る日も自分の求める「黒船カレー」を追いかけて食べ続ける姿は、幻を追う夢遊病者のようにも映るが、あせりを凌駕(りょうが)する多幸感に読者は引き込まれてゆく。
情報収集の迷路でもがき、カレーという混沌(こんとん)のなかであっぷあっぷする実直な姿。著者は、こう率直に吐露している。
カレーは僕に生きる意味を授けてくれた料理なんだと思う
カレーに一蓮托生(いちれんたくしょう)、新たな四十代を掴もうとする手つきが好もしい。と同時に、知れば知るほど次の物語を用意するカレーという食べ物の底なし沼に、あらためて驚かされる。
もちろん、腹の虫が騒ぐ垂涎(すいぜん)の味の発見のオンパレード。ロンドンのパブで、ギネスを片手に食べるチキンティッカカレー。有名レストランで衝撃を受けるモダンインディアン料理。フィッシュ&チップスをどっぷり浸すカレーソース。パリの街角のスパイスショップ。ドイツのソーセージ屋台に漂うカレー粉の香り。スイスの生クリームとフレッシュなフルーツのカレーでさえ、彼の地に根づいたオリジナルな味を体験したくなる。深く、浅く、カレーはそれぞれの異文化にツメ痕を残しているという事実の数々。
「黒船カレー」に、いつどこで遭遇するのか。大英図書館で掘り起こしたカレーを巡るレシピ本の真実とは? さんざん遠回りしたからこその、発見の喜び。嘆息や徒労感、苦い思いもまた人生に芳しいスパイスをふりかける。カレーの香り渦巻く後半生に、エールを送りたくなる一冊だ。