書評

『機械状無意識―スキゾ分析』(法政大学出版局)

  • 2017/10/12
機械状無意識―スキゾ分析 / フェリックス・ガタリ
機械状無意識―スキゾ分析
  • 著者:フェリックス・ガタリ
  • 翻訳:高岡 幸一
  • 出版社:法政大学出版局
  • 装丁:単行本(418ページ)
  • 発売日:1990-10-01
  • ISBN-10:4588003089
  • ISBN-13:978-4588003080
内容紹介:
プルースト論に〈顔面性特徴〉〈リトルネロ〉という絵画的・音楽的概念を導入し,独自の〈スキゾ分析的語用論〉を展開しつつプルースト的エクリチュールを解読する。
著者のいうところに従って二、三の頻出する風がわりな用語を説明する。まずこの本の題名になっている「機械状無意識」とか「無意識機械」とはどんなことか。フロイトのかんがえた無意識は、人間の意識活動の深層のところにあって、意識が気づかない形で意識の行為に影響をあたえている時間、空間の秩序や枠組みをもたない精神の貯水池のようなものをさす。この著者のいう機械状無意識は、その対立概念として著者自身が造成したものだ。フロイトの無意識が奔騰するシニフィアンやイメージや形象や言葉の無定型な貯水池だとすれば、著者の機械状無意識は深層の貯水池が、つぶれているのに埋め立てられたために、ほんらい貯水池にあったはずのシニフィアンや言葉や形象やイメージやその他のあらゆる発生機械や装置が、横にひろがって氾濫した無意識をさしている。機械状に横断しているこの無意識は、拡がり方に特性をもっている。ひとつは言葉やイメージや形象は、ひとつの点からまったく関わりのない任意の別の点と自在に結びつくことができる。二進法もなければ十進法もない。ようするに結びつきのノルムをもたない。もうひとつの特性は記号的な様式をもつものだけではなく、生物学の環とも政治学の環とも、社会経済学的な環とも自由に結びついて作動させることができる。つまりどんな物や精神でもトポロジカルに同型な「リゾーム」状の結びつきにしてしまう。それは錯合意識によって表象される深層の無意識ではなくて等高線や形態によって描きだされる地図のようにひろがったものだ。

こういう著者の機械状無意識がうまく成り立つかどうかは別にしておく。なぜこんな無意識を著者が設定さぜるをえなかったかは、とてもよくわかる。ひとつはフロイト-ラカンのような深層の無意識を微細化してゆくことに意義があるのかどうか現在が疑わしくしてしまったことだ。どんなに古典的な無意識の概念を微細化しても、こういう無意識が現在のシステム社会では、ますます画一化され、底あげされていきつつある趨勢を避けることはできない。いいかえれば古典的無意識ならば、分裂症者のばあいをのぞいたら、もういくら設定し微細化して追究しても、それほど変りばえはえられそうもなくなってしまった。それよりも無意識は、現在のあらゆる社会現象や個人関係や内的な相と結びついてひろがってゆく可能性そのものに、定義を変更した方が、有効性をもつのではないか。つまり現在わたしたちは汎エディプスの画一性格とアンチ・エディプスの設定とが同一であるような場所に、どこかで遭遇したことがあるか、あるいはほどなく遭遇するに決っているようにみえる。この本の著者の機械状無意識という概念では、フロイト-ラカン主義をつなぐ網状の水路には、いたるところに小さな停泊点があり、そこではミクロ政治があったり、ミクロ経済があったり、筋肉やファルスが物を言う領域があったりして、価値をつくっていたり、切断状態にあったりしているとみなされる。そしてこの「リゾーム」線の神経繊維の役割を担っているのは、あるばあい言葉であったり、シニフィアンであったり、イメージであったりする。つまりこれらが機械状無意識の行動線にあたっていることになる。

いきおい機械状無意識という概念では、意識の行動がなくても無意識が行動をすすめているとか、無意識の影響はつづいているといったことはかんがえる必要はない。機械状無意識は機械状無意識のように振舞うので、どこにも潜在性も秘密もない。わたしたちの行動はいつでも機械状無意識の行動であることができるが、これが意識された行動とちがうところは、起因と終因のところで、意図と実現の予期の結果がずれをうみだすか、うみださないかということだけだ。べつな言い方をすれば「入口のドアと出口のドアとは一致しない」ということが起りうる。ここで著者が機械状無意識の概念から導いた特徴ある産物を、いくつか挙げてみる。

(1)言語はそれ自体では存在しない。社会的な構造物の方に延びていって結合手をつかってつながっている。だから言語はどこにでもあって、しかも固有の領域をもたない。

(2)文法はひとつの社会の秩序を内在的に保証している抽象的な装置に対応する権力の標識だ。ひとつの文法が支配的となるということ。文法の生成論をかんがえることが、機械状無意識のどこかでミクロ政治的な権力を許容しているということはありうる。

(3)病態というものは、主体、自我、超自我、身体、恐怖、不安などのどれかひとつ、またはこれらの組合わせに権力があたえられた状態に対応するとみなしてもよい。

(4)国家を記号論的に言いかえることはかならずできる。その権力作用はシニフィアンの権力であり、国家の下にある社会の構成を分節化して言語系標のさまざまな装置を配置させる。

(5)資本主義的な抽象化作用は、機械状無意識を造りだし、使用価値と交換価値の対立の段階をその無意識とすることによって労働価値を「リゾーム」線の内部にとりこんでいる。

この本の著者の機械状無意識という設定がうみだしたいくつかの特性を、こんなふうにとりだしてみると、この世界の構成がクモの巣のトポロジーあるいはトポロジーのクモの巣の構造に変容してみえてくる。物たちと言葉たちの区別もいらないし、言葉とイメージの区別もいらない。ただシニフィアンの連鎖のところどころに政治的ミクロや経済的ミクロや言語的ミクロがあり、ただシニフィエの同一性によって領域をつくっている結節点が分布している図像がうかんでくる。そしてこれが不都合におもえるのは、著者が資本主義的というとき、それが欠如からみたこの世界の永続的な枠組みにみえてしまうことだ。

「資本主義的・語用論的領野における顔面性の具体的役割を掘り下げてみることによって」などと言われると、わたしたちはこの著者の魔術的な世界観の枠の外に出られなくなった幼児のような気分にさせられる。ある意味では、この著者の機械状無意識という概念の創出はどうしても必然的で魔術的な一元論の世界に、この世界とそれを容れている容器とを平面化し、地図化してしまうことにならざるをえない。この平面化や地図化がトポロジーの操作であるかぎりは、興味ぶかい考察を導きだしている。でも一元化や平面化の側面からいうと世界認識を魔術的に退行させられ、幼児の一元世界に閉じこめられるような気分になってくる。

機械状無意識という概念の創出と機械状無意識の分析(著者はスキゾ分析とよんでいる)概念にとって、著者が導入している大切な概念がもうひとつある。それは著者と訳者が「顔面性」と呼んでいるものと、「リトルネロ」と呼んでいるものだ。わたしのおおざっぱな理解の言葉にいいかえると「顔面性」とは「表情」のシニフィアンというほどのことを意味しているようにおもえる。「表情」は内的なシニフィアンと外的なシニフィアンが出あう触覚的な境界面で、たとえば動物が触覚的に認識するところを、人間は「表情」であらわしている。この本の著者と訳者がいう「顔面性」とは「表情」的なシニフィアンの作用をさしているようにおもえる。また著者が「リトルネロ」と呼び、訳者がその通りの言葉で術語化しているものは、「テンポ・リズム・音声」など聴覚シニフィアンのようにうけとれる。著者の機械状無意識とそれによる分析概念であるスキゾ分析は、このふたつの概念を設定することで微細化できたことになる。たとえば「表情」は自立的な定義では言語ではないかもしれない。だが「表情」シニフィアンによって表現されるのがふさわしい(前)言語状態はあるし、それはわたしたちが意識的にも無意識的にも行使している。これを「リゾーム」線として設定することで、たとえば「朝はやく起きて顔を洗った」と「朝五時に起きて顔を洗った」のちがいを機械状無意識として区別することができる。また著者のいう「リトルネロ」、いってみれば「テンポ・リズム・音声」の差異と同一性を設定することでミクロ社会的なあるいはミクロ政治的、ミクロ経済的な圏域のあいだの微妙なちがいを、分析のなかに導きいれることができる。またもちろん「テンポ・リズム・音声」シニフィアンと言語の意味との未分化と分化のあいだには、たんに韻文調と散文調の区別があるだけではなく、未開、原始と近代の時間的な区分を入れこむこともできる。そして著者はもっとさきまで言いたいわけだが、これらの相違には、カースト、階層、階級の未分化な時期と明晰に分化してしまった資本主義の社会との相違も内包されることになる。もっと極限のところでは、著者は資本主義の社会は「テンポ・リズム・音声」の簡略と貧弱化、画一的な系列化に導かれることになり、逆に分化という面からいえばそれが分業と専門的な高度化をすすめていることになる。これを著者は「資本主義的なリトルネロ」の世界と呼びたいわけだ。

『失われた時を求めて』の話者「私」は、作品のなかで幼年の「私」になったり、現在の「私」として突然の記憶の想起作用を分析したり、他人の「声」色を再現したりしながら、読者を持続する無意識のなかに惹き込んでゆくわけだが、この本の著者の作品分析では、この「私」という話者と、話者の無意識の特権的な位置を解体することで、この大長篇を「スワンの恋」の分析を通して、作者プルーストの「リトルネロ」の探求の科学として読む方法を披瀝している。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN-10:4122025990
  • ISBN-13:978-4122025998

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機械状無意識―スキゾ分析 / フェリックス・ガタリ
機械状無意識―スキゾ分析
  • 著者:フェリックス・ガタリ
  • 翻訳:高岡 幸一
  • 出版社:法政大学出版局
  • 装丁:単行本(418ページ)
  • 発売日:1990-10-01
  • ISBN-10:4588003089
  • ISBN-13:978-4588003080
内容紹介:
プルースト論に〈顔面性特徴〉〈リトルネロ〉という絵画的・音楽的概念を導入し,独自の〈スキゾ分析的語用論〉を展開しつつプルースト的エクリチュールを解読する。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1991年1月

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