書評
『青い山脈』(新潮社)
石坂洋次郎を読んで初心を取り戻す
近くの古本屋に石坂洋次郎と源氏鶏太と獅子文六の文庫本がドカッと出ていた。これはもしや、どこかのおじいちゃんがお亡くなりになって、家族が書籍の処分に困り月水金の燃えるゴミの日に出しちゃおうかと思ったけれどそれもおじいちゃんに悪いしこういう本でも読む人だっているだろうと「取りに来ていただければ無料で差し上げます」と言って古本屋に提供したのではないか。それなら、この本を買って読んであげるのもなにかの供養になるかもしれないと、連日お昼の弁当と一緒に少しずつ購入してはその弁当を食べながら読んでいたのだった。さて、いまごろ石坂洋次郎や源氏鶏太や獅子文六を読む人がいるのだろうか。もちろん「読む」という行為にはさまざまな側面があり、
「資料として読む」場合も、
「古典として読む」場合も、
「教科書に載っているから仕方なく買ってきて読む」場合も、どれもこれも「読む」ことには違いないが、ほんとうのことをいうと「心ときめく出会いを求めて読む」ことだけが「読む」という言葉に値するのであり、そういう本だけが「現役」であるとしたら、これらの作家諸氏の作品は半ば現役を引退しつつあるという印象は否めない。
しかし、だ。小説というものは(小説だけじゃないけど)、ごく一部の折紙つきの名作を除けば後は野となれ山となれで忘却の彼方に消え去っていくものばかりというのもなんか変なんじゃないかと思うよ。同時代の人間なんて親切なようでその実、目の前を通り過ぎてゆく流行に弱いんだから、そういう人たちの評価を真に受ける必要もない。わたしも市井の一現代作家として、忘れられつつある過去の作品の中に「資源の再利用」が可能なものがあるのではないかと考えることが多いのだ。最近、わたしのテーマは、
「限りある資源を大切にしよう。おじいさん、おばあさんをたいせつにしよう」なのである。そういう観点から見ると、たとえば武者小路実篤がどれほどショッキングであるかは別のところに書いた。そして、石坂洋次郎もまた相当なのである。
「……。もし私も戦いに敗れたら、いっしょに東京にでも行って、二人で働いてもいいわ。私は語学で働くし、貴女は背が高く美人だという以外にとりえも無さそうだから、ダンサーでもするかな」
「いやあ、先生――」
「ところで、貴女、踊れる? 私は女子大で教わったから踊れるけど……」
「少しできます」
「じゃあ立って。私たち踊るのよ」
二人は変に真面目くさった顔を見合わせて、海の照り返しで明るい丘の上に立ち上がった。
「はじめにワルツよ。ワン・ツウ・スリー・キックス……はい」
いまはもう、教師でも、生徒でもなかった。若い二人の娘たちにすぎなかった。
トンビが一羽、丘の上の青空に、輪を描いていた。ひろい見晴らしの中で、動いて見えるものはそれ一つだけだった。(『青い山脈』)
素晴らしい。いま、こんな文章が書けますか。初心忘るべからず、とわたしは思いました。この作品の中で石坂先生はこんなこともおっしゃってます。
「……。それでいまも私たち、外国の小説や脚本などをたくさん読んで、どんな混乱した瞬間の気持ちでも正しくいい表せるように、言葉を豊富に身につけておかなくてはいけないと話していたとこなの」
それでいいのだ!
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