書評
『変身』(新潮社)
「四十九日」の物語
カフカの『変身』を読んだのはいつの頃か、ときかれたら案外みんな正確に答えられないのではあるまいか。『坊っちゃん』は中学一年のとき、『赤と黒』は高校二年のとき、『夜の果ての旅』は大学二年のとき(『失われた時を求めて』はいつも途中まで)などとわりとはっきり覚えているが、カフカについては読んだことだけはたしかなくせに、その時期があいまいだ。彼の作品にはどうもそういう読書経験に霧をかけるようなところがあるらしい。三年前、長いつきあいの友人が、ある朝、出張先のホテルで急死した。通夜、茶毘、告別式と僕はつめた。四十九日の法要もおえて菩提寺の本堂のきざはしをおりると抜けるような五月の空で、参会者は故人の家族も含めて思わず青空にむかって大きく伸びをしたものだ。このとき、僕はとつぜん『変身』を思い出した。
両親と妹を養い、破産した父親の借金返済のため働きずくめの服地セールスマン、グレゴール・ザムザは疲労のはてに一匹の虫に変身してしまう。家族は驚き、悲しみ、やがて彼を嫌悪しはじめる。
虫になっても青年は家族を思いやる心でいっぱいだ。やがて心も頭も、妹の弾くバイオリンの音に魅惑されつつ虫の息となり死を迎える。
この物語は、他のあらゆる変身譚の逆をいっているようだ。グリム童話の「はりねずみのハンス」などの例をひくまでもなく、動物に変えられた者が最後は愛の力や知恵によって人間の姿に戻る。グレゴールは人間から虫に変身し、その屈辱の中で死んでゆく。しかも彼の愛の対象である両親と妹の酷薄さはなんとしたことだろう。妹のグレーテは、妹の力を揮(ふる)って兄を人間の姿に甦らせようとするどころか、「追い出さなくっちゃだめよ」と叫び、「あいつがグレゴールだっていう考えを棄てさえすればいいのよ」とまで言ってのける。
干からびた虫の死体が家政婦に発見された朝、彼の両親であるザムザ夫婦は元気にダブルベッドの上で起き上がる。息子の死骸の始末を家政婦にまかせて、三人は電車に乗って郊外にピクニックに出かける。妹は若い豊かな肉体を春の日ざしの下ですっくと伸ばす。
そうだ、われわれも思わず五月晴れの空にむかって大きな伸びをしてしまったのだった。
童話や伝説の変身譚を希望の変身譚とするなら、カフカの『変身』は絶望の変身譚といえるかもしれない。友人の四十九日をきっかけに僕はこの物語を次のように読んでみた。
冒頭の、「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した」というくだりを、「ある朝、グレゴール・ザムザは……自分が死んでいるのに気づいた」と読む。つまり、グレゴールは過労によって突然死したのだ。彼の肉体は死んでも彼の精神はまだ自分が死んだことを認識しない。家族は、一家の柱の突然の死に驚き、途方にくれておろおろする。やがてだんだんこの事態にも慣れ、つらいことだが忘れなければならないと考えはじめる。
これはつまり「四十九日」の物語なのだ。四十九日めに死者の魂は肉体を離れて冥土へ旅立つ。土中では死体の溶解がはじまる。生きている者たちはふたたび生への活気を取り戻すだろう。死者は自分の死を享け入れるだろう。
この物語の冒頭から終わりまで、虫への変身から死までの時間は正確に一ヵ月半となっている。
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