書評
『図説 英国社交界ガイド:エチケット・ブックに見る19世紀英国レディの生活 (ふくろうの本)』(河出書房新社)
英文学、映画を味わうコード満載
礼儀作法(マナー)やエチケットは何のためにあるのか? 「社交界(ソサエティ)」に入ろうとする新参者を、それと気づかせずに排除するためである。「社交界に属する家系に生まれ育った人なら、当然身につけているはずの風習も、外部の人間にはわからない。そのため、貴族の世界の基本的な交際のルールに通じているかどうかが内と外を判別する基準になった。エチケットが社交界を『下品な人たち』から守る壁となり、また、壁を通り抜ける合言葉ともなったのだろう」
本書は、富裕化で社交界に憧れるブルジョワ女性が増えたのに伴い多数出版されたヴィクトリア王朝期の「礼儀作法入門」の類いを纏(まと)めて考察することで、マナーやエチケットが果たしていた社会的役割を解明し、社交界の実態に迫ろうとした試みである。
「エチケット・ブックの著者たちは、上昇志向をもつ社交界のよそ者に、壁抜けの方法を教えてあげよう、と口々に誘いかける。では、その方法は具体的にはどんなものだったのだろうか」
社交界に入りこもうと努める人(そのほとんどは女性)にとって最初に障壁となるのは紹介の手順の不文律であった。すなわち、パーティーで身分の上の人にいきなり話しかけたりしてはいけない。かならず双方とつながりのある誰かに紹介の労を取ってもらわなければならないが、これにも厳然たるルールが存在した。
「『紹介』は、原則として身分の低い者を高い者に向けておこなう。たとえば庶民のA夫人が貴族のB卿(きょう)夫人に紹介してもらいたい場合、仲介者はかならず身分の高いほうの意向を事前に確認した。逆をいうと、身分が高い人が低い人と近づきになりたい場合は、低いほうの意志の確認は必須というわけではない」
また、男女の引き合わせは、身分より性別が優先され、女性の意向を確認した後で男性を女性に紹介することになっていた。
さて、こうした「紹介」という第一関門がクリアされたとしよう。次には「訪問カード」という難関が待っている。訪問カードは日本の名刺の原型だが、同時に交換するものではない。まずパーティーで知己を得た人の自宅を訪れて召使に「訪問カード」を渡し、面会の可否を問うのである。訪問カードは敬称と氏名、それに住所、訪問を受ける曜日などを記した簡素なものだが、じつはそれだけの記述の中に詳しい情報が詰め込まれている。
たとえば、訪問カードに「レディ・モーガン」とだけ記されていたとしよう。コードを知る人は「モーガン准男爵(ないしはナイト)夫人」だとわかる。同じ「レディ」でも侯爵・伯爵・子爵・男爵の夫人および公爵・侯爵・伯爵の長男の夫人は「レディ+地名」と書くのが普通だが、准男爵およびナイトの夫人は「レディ・姓」となるからだ。ちなみに、公爵・侯爵の次男以下の夫人は「レディ+夫の名・姓」だし、伯爵の次男以下および子爵・男爵の息子の夫人は「ミセス+夫の名・姓」だから識別は十分可能なのだ。
なんとも複雑怪奇というほかはない。イギリス人が暗号解読に長(た)けているのはこうした微差判別の訓練を幼いときから受けているからではないかと思いたくなる。
そのほか、正餐(せいさん)会や舞踏会におけるエチケットを巡る駆け引きなど、英文学やイギリス映画を正しく味わうための社交界コードが満載されている。あらゆる意味で英国理解に役立つ本。