はじめに――前近代から超近代へ
『ノートル=ダム・ド・パリ』(一八三一)は、『レ・ミゼラブル』(一八六二、※1)と並ぶ、十九世紀フランスの文豪ヴィクトル・ユゴー(一八〇二~八五)の代表的な長編小説です。どちらも映画やミュージカル、アニメなどに翻案されて人気を博し、何度も繰り返しリメイクされていますから、だいたいのストーリーをご存じの方も少なくないでしょう。では、原作を読んだことがある方がどのくらいいらっしゃるかというと、おおよそのストーリーや有名なキャラクター──たとえば『レ・ミゼラブル』ならジャン・ヴァルジャン、『ノートル=ダム・ド・パリ』ならカジモド──は知っていても原作は一度も読んだことがないという人のほうが、圧倒的多数派のようなのです。
翻案や少年少女向けの抄訳によってなんとなく読んだような気になっているため、わざわざ原作を手に取る気になれないという人がほとんどでしょう。しかし、なかには、映画やミュージカルで興味を持ち、試しに読んでみようと思い立つ人もいるかもしれません。しかし、いざ読もうとして本を開いても、出だしからびっくりして「何だコレは?」と面食らってしまうはずです。
というのも、あたかもオペラの長い前奏曲が延々と続くようでなかなか幕が開かないからです。雑多な群衆の中からいろんな人物が次々に出てくるのですが、いったい誰が主人公なのかもわからない。忙しい現代の読者にとっては、とてもではないけれどストーリーが動き出すまで待っていられないと感じられるようです。まことにヘンテコな始まり方の小説なのです。
しかも、ようやくストーリーが動き出したと思ったのもつかの間、再び語りは脱線し、建築やら歴史やらの話が延々と繰り広げられます。なんともアンバランスな小説で、私たちがふだん読み慣れた現代の小説とはかなり勝手が違っています。
また映画やアニメなどではストーリーが割愛されたり改変されたりしているばかりか、物語を単純化するために、クロード・フロロという登場人物の設定が聖職者から権力者の判事に変えられていたり、原作の悲劇的な結末がハッピーエンドに変わっていたりします。そのため、アダプテーション(翻案)とはずいぶん様子が異っていると感じ、小説には入り込むことができません。とにかく、現代の読者にとって、読みにくいことおびただしい小説であることは確かなのです。
にもかかわらず、ストーリーは人口に膾炙(かいしゃ)して、これまでにも、繰り返しリメイクが行われたり、映画やミュージカルなどで新しい命が吹き込まれ、まるで不死鳥のように蘇っているのです。
一体どうしてなのでしょうか。
これから、この秘密を解き明かしていこうと思いますが、それには、まず作者ユゴーが、同時代のバルザック(※2)やデュマ(※3)、あるいは少し後のフロベール(※4)などとは感覚がかなり異なる作家だったということを頭に入れておかなくてはなりません。
一人の明敏な自我意識をもった作家が一字一句ゆるがせにせず、変更不可能な唯一の「作品」としてつくりあげるのが近代小説だとすると、『ノートル=ダム・ド・パリ』はむしろ、人から人へ、口から口からへと語り継がれる口承文芸、あるいは古代から中世へと続く民族叙事詩や神話の流れに棹(さお)さす小説であるということができるのです。
しかし、こう書くと、でも『ノートル=ダム・ド・パリ』の作者はユゴー一人で、複数の作者の共作によるのではないから、口承文芸的とか民族叙事詩・神話というのはおかしいではないかという反論が出てくるかもしれません。
これに対しては、ユゴーは一人であって一人ではないと答えておきましょう。
それは次のような譬(たと)えで説明できるのではないでしょうか?
あらゆる電子的再生装置が普及した現代においても、歌手のライブというものが盛んなのはどうしてでしょう。それは人間の生の声というものが、他では置き換えできない、いわく言い難い感動を呼び覚ますからです。
ところで、歌手のライブにおいては、それが何語で歌われるかということがとても重要です。多言語を自在に操る歌手であっても、ほんとうに魂の入った歌は母国語でしか歌えません。なぜかといえば、その母国語の歌には遠い先祖から受け継がれてきた民族の言葉や音声的DNAのようなものが含まれているからです。言いかえると、優れた歌手の歌声には言葉や音声的DNAをリレーしてきた無数の人々の存在が潜在的に感じられるので、聞く者を感動させるのです。
詩についても同じことがいえます。詩だけは原詩で読むべきものなのです。
(次ページに続く)