この「原詩でなければダメ」という傾向がとくに強いのがユゴーです。フランス人でない私たちがユゴーの詩を翻訳で読んでも「この詩のどこが凄いのだろう?」などと思ってしまいます。フランス語をかなり理解する日本人がフランス語で音読しても、事態はあまり変わりません。ところが、フランス人が母国語で音読されたユゴーの詩を聞くと、まるで迫力あるライブを聞くような感覚でユゴーの肉声が立ち上がってくるといいます。ユゴーの詩はフランス語を母国語とする人たちには、言葉と文字というプリミティヴな媒体による録音再生装置として機能しているようなのです。
この意味で、ユゴーという詩人は、古代・中世の吟遊詩人であると同時に魂の叫びを歌いあげる現代のロックンローラーに近いのかもしれません。シャウトする欧米のロックンローラーの歌は日本語吹き替えバージョンではダメで、やはり母国語のライブでなければいけないというのと同じことです。
ところで、ユゴーの小説もまたこの吟遊詩やロックンロールに近いものなのです。つまり、現代のように黙読が前提となる以前の、すなわち、本来なら音読されるべき作品なのです。そして、この音読性という点において、ユゴーの小説、とりわけ『ノートル=ダム・ド・パリ』は口承文芸である神話や叙事詩に近づきます。言いかえると、民族の音声的DNAのリレーが行われ、そこには無数の作者、歌手が潜在的に存在しているという意味で、神話的、叙事詩的であるといえるのです。ユゴーは一人であって一人ではないというのはこういう意味です。
さて、『ノートル=ダム・ド・パリ』は神話的、叙事詩的であるということになりましたので、ここでようやく、原作を読む人は少ないにもかかわらず、誰もがおおよそのストーリーを知っているのはなぜかという疑問について語ることができるようです。『ノートル=ダム・ド・パリ』は一人の作者が一人の読者に向けて書き、読者に「これは私のことだ」と思わせるような近代的な作品とは異なります。むしろ、匿名の参加者がいくらでも変奏しリメイクすることが可能な集団的想像力の場であると言ったほうがいいのです。
ユゴーの小説は、このように神話や叙事詩に似た「開かれた構造」を持っている「神話的小説」だと言えるのではないでしょうか。その構造にはスキがあって、なおかつ壊れにくい強さがあるので、何度でも新しく命を吹き込むことができるのです。
しかも、そうした前近代的な構造の枠組みの中で、二十一世紀でも十分に通用する超近代的な人間の波瀾に富んだドラマが展開していきます。そこに現れる光と闇の葛藤がこの小説の醍醐味で、現代を予言するようなテーマも描かれます。また、カメラ・アイのような視点が自在に用いられ、すでに映画の出現をも先取りしているのです。そんな類まれな幻視者である天才ユゴーの驚くべき小説の魅力に迫っていくことにしましょう。
※1 『レ・ミゼラブル』
飢えに苦しむ甥や姪たちのために一斤のパンを盗んだジャン・ヴァルジャンは、十九年間の獄中生活を強いられた。人間不信と社会に対する激しい憎悪を胸に出獄し銀の食器を盗むが、ミリエル司教の慈愛に触れて愛の精神を取り戻す。そののちは不幸な人々の救済に努め、人類愛の体現者として後半生を送る、というストーリー。一八一五~三三年のフランスが舞台。世界各国で翻訳されて好評を博し、日本でも一九〇二~〇三年に黒岩涙香が『噫(ああ)無情』のタイトルで翻案して以来、翻訳・翻案が幾度となく繰り返されている。
※2 バルザック
一七九九~一八五〇。フランスの作家、近代リアリズム文学の先駆者。パリで法学を学ぶが断念して文学に転進。自活のため出版業・印刷業などを営むものの失敗し多額の借金を抱え文学に専念。『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『従妹ベット』など約九十編の小説を相互に関連づけながら、大革命後から半世紀にわたるフランス社会の実態と歴史を描く大河小説「人間喜劇」を着想した。
※3 デュマ
一八〇二~七〇。フランスの作家・劇作家。初め劇作家として成功、やがて歴史小説に乗り出し、フランスで手ごろな値段の新聞と大衆小説が流行した四〇年代に『三銃士』『モンテ・クリスト伯』など多数の名作を発表し、多くの読者を獲得した。
※4 フロベール
一八二一~八〇。フランスの作家、近代リアリズム文学の大成者。医師の子に生まれ、パリで法学を学ぶが断念。ブルジョワの卑俗さを嫌悪し、父の別荘に籠もって文学に専念。当初はロマン派文学を志すが、のち客観主義的手法を用いて『ボヴァリー夫人』を完成。このフランス・リアリズム文学の記念碑的作品は、連載中に風俗紊乱(びんらん)で告発されるものの無罪を勝ち取り、彼の名声は一気に高まった。他に『感情教育』『ブヴァールとペキュシェ』など。