書評
『パリに終わりはこない』(河出書房新社)
奇妙な作家ビラ=マタスの最新翻訳本が登場
ヘミングウェイに憧れて、パリで作家修行をする男の、こじらせた黒い自意識
時々、フロール、あるいはシェ・トントンのテラスに腰を下ろし、サルトル風のパイプをくわえてさもフランスの危険な若手詩人であるかのような顔をして本を読んでいたが、内心では道行く人が私に注目し、じっと見つめてくれればいいのにと思っていた。時々――計算の上で――読んでいるふりをしている本から顔を上げたが、呪われた作家を思わせる私のまなざしはこれ以上ないほど鋭く洞察力に富んだものに思えたはずである。
すべての物語はすでに語られている。それは現代の芸術家にとっての前提条件である。といってもそんなことを考えずにすんでいたのはホメーロスくらいまでで、シェイクスピアだって「もう演劇なんかギリシャ古典演劇で全部やられちまってる」と思いながら書いていたとおぼしい。今作家になろうとするのは作家を模倣しようとすることであり、映画を作るのは映画監督の真似をすることに他ならない。そして、そうした状況をエンリーケ・ビラ=マタスほど巧みに書く作家はいない。
バルセロナ出身のビラ=マタスは「小説を書かない作家」をテーマにしたエッセイとも小説ともつかぬ奇妙な小説『バートルビーと仲間たち』(08年新潮社)で知られている。作風が作風だけにあまり翻訳も進んでいなかったのだが、ようやく3冊目の翻訳が出版された。これがどこを切ってもこじらせた自意識のかたまりみたいで、笑い死にしそうになるほど面白いのである。著者である「私」はフロリダ州キーウェストでおこなわれるヘミングウェイそっくりさんコンテストにエントリーするが、「外見上ヘミングウェイにまったく似ていない」という理由で失格になってしまう。作家ヘミングウェイに憧れ、最近はルックス的にもヘミングウェイに似てきたと思いこんでいた(しかし、妻からはまったく似ていないと否定され続けている)「私」にとってはひどい痛手だった。かつてビラ=マタスは作家をめざし、処女作を書くためにパリにやってきた。ちょうど憧れの作家ヘミングウェイがそうしたように。ビラ=マタスはヘミングウェイのようになりたいと思ってパリに来たが、ヘミングウェイとは似ても似つかないと痛烈に教えられてしまうのだ。
ヘミングウェイは書いている、「パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに、他のだれの思い出ともちがう……パリは常にそれに値する街だったし、こちらが何をそこにもたらそうとも、必ずその見返りを与えてくれた。ともかくもこれが、その昔、私たちがごく貧しく、ごく幸せだった頃のパリの物語である」
もちろん『移動祝祭日』に憧れてパリに行ったビラ=マタスは「ごく貧しく、ごく不幸だった」パリの物語を綴ることになる。ビラ=マタスはなんとマルグリット・デュラスの家の屋根裏に下宿することになるのだ。だが家賃はいちども払っておらず、というのも家賃の話をはじめるとデュラスの「すばらしいフランス語」の意味がわからなくなってしまうからなのである。
それだけ文学的な環境に身をおけばこそ、彼は不幸なのだった。
当時の私はさまよえる悪夢だった。青春とは絶望であり、絶望の色は黒である。そう考えて黒ずくめの服を身につけていた。そして、まったく同じ眼鏡を二つ買いこんだ。その方が知的に見えるだろうと思ったのだ。
青春とは絶望であり、絶望の色は黒である! ヘミングウェイにとってパリは『移動祝祭日』であるが、ビラ=マタスにとっては同じ終わらないものでも悪夢なのである。たぶん人生を何かの模倣として、一種のパロディとして生きなければならないすべての者にとって、ビラ=マタスの苦悩はヘミングウェイの喜びよりはるかに近しいものである。
ビラ=マタスはたびたび映画に行く。『インディア・ソング』(85年)について語られるエピソードはどれも興味深く、危険きわまりない(というか、このデュラスについて書かれていることはどこまで本当なのか、さっぱりわからないのだが)。1回目の上映が終わったあと。「あなたの撮られた映画はどれも大好きなんですよ」と讃辞を送ったアラン・ロブ=グリエに「今おっしゃったのと同じことをあなたの映画について言えないのは残念だわ」とデュラスは返したのだという。
映画秘宝 2017年12月
95年に町山智浩が創刊。娯楽映画に的を絞ったマニア向け映画雑誌。「柳下毅一郎の新刊レビュー」連載中。洋泉社より1,000円+税にて毎月21日発売。Twitter:@eigahiho。