書評
『ねじ式』(小学館)
「ガロ」という雑誌に、つげ義春の"ねじ式"が発表された時、ちょっとした漣(さざなみ)が広がったのを私は覚えている。
「漫画もとうとう芸術表現の様式のひとつになった」
「ああいうのは漫画の邪道だ。漫画は分かりやすく面白くなければならない」
大別するとその二つの意見が漣には含まれていたのである。グラフィックデザイナー、アートディレクター、コピーライターといった、主に片仮名の分野で働いていて、何となく自分たちはアーティストとして扱われていないと感じていた人たちがほぼ前者に属し、文学者、評論家、作曲家といった、漢字で表現される分野の人々は主に後者、つまり「ねじ式」に否定的だったように記憶している。一九六八年の頃(ころ)のことである。
この作品は、つげ義春がラーメン屋の屋根の上で見た夢に基づいて描かれた。
「だから、およそ芸術らしくない」と本人は主張していたが。
新しい芸術は常に「これは芸術か否か」という論争を惹起(じゃっき)しながら登場するのだから、この現象は検討してみる必要のある事柄であった。
この作品には、小学生とか少女とか、あるいは〇〇主義、〇〇教、というような〝御主人様〟がいない。このことを作者は「動機というものもいい加減なもので―」と述べている。
先日他界した武満徹の作品を「音楽以前」と一行で片付けた有名な「進歩的」「近代的」評論家がいたことは、人口に膾炙(かいしゃ)している逸話だが、政治や社会的事象に対して"保守的"か"革新的"かを問わず、権威を持った宗匠はなぜか芸術の新しい動きに対しては冷たく抑圧的に動くのである。
そのような漣の中に置かれたこの作品は、いくつかの見逃せない特徴を、構成と画面と言葉に持っている。
物語は、メメクラゲに噛(か)まれた少年が、出血多量で死の恐怖にさらされるところからはじまる。探せども探せども医者は見付からず、ようやく婦人科医のところに辿(たど)りつく。夢の中で少年は彼女と交わる。それはシリツ(手術)という言葉で表現されている。
婦人科医が登場する場面では、海上に軍艦が浮かび、砲撃戦が展開されている光景が額縁の中でのように遠くに描かれている。
最初の、少年が怪我(けが)をする場面でも、上空を飛んでいる飛行機は戦争中の敵機かもしれない不気味さである。
次の段落で、少年が飛び乗った汽車は後へ後へと走って、もとの村に戻ってしまう。風鈴が暗い光線の中に浮かんで、「こういうところをひと目、母にみせたかった」と少年は目をつぶって考える。
もとの村に舞い戻って医者を探す少年に眼科の看板ばかりが見えてくるのも、暗喩(あんゆ)と読めば、深い味が隠されているようだ。
理性の否定と次の段落でのエロスの登場。しかし、その間に、母との訣別(けつべつ)、桃太郎変じて金太郎のエピソードが何げなく挿入される。その上で、エロスは血と暴力の臭(にお)いを伴って描かれる。
このように作品を見、かつ読んでくると、漫画は権威者の論評とは関係なく、その頃から多様な個性の時代に入ったということができよう。そこには文明批評あり、ノマド志向あり、劇的なSF空間の展開があり、そして「私小説」もある。
こうした百花斉放の状況は、文学分野の低迷と著しい対照を見せていると言ってもいいのではないか。原因はいろいろ考えられるけれども、漫画に較(くら)べて過激な精神と劇的構成を文学が失っているからではないだろうか。
「ねじ式」はいろいろな意味で新しい時代が到来したことを示していた。
【この書評が収録されている書籍】
「漫画もとうとう芸術表現の様式のひとつになった」
「ああいうのは漫画の邪道だ。漫画は分かりやすく面白くなければならない」
大別するとその二つの意見が漣には含まれていたのである。グラフィックデザイナー、アートディレクター、コピーライターといった、主に片仮名の分野で働いていて、何となく自分たちはアーティストとして扱われていないと感じていた人たちがほぼ前者に属し、文学者、評論家、作曲家といった、漢字で表現される分野の人々は主に後者、つまり「ねじ式」に否定的だったように記憶している。一九六八年の頃(ころ)のことである。
この作品は、つげ義春がラーメン屋の屋根の上で見た夢に基づいて描かれた。
「だから、およそ芸術らしくない」と本人は主張していたが。
新しい芸術は常に「これは芸術か否か」という論争を惹起(じゃっき)しながら登場するのだから、この現象は検討してみる必要のある事柄であった。
この作品には、小学生とか少女とか、あるいは〇〇主義、〇〇教、というような〝御主人様〟がいない。このことを作者は「動機というものもいい加減なもので―」と述べている。
先日他界した武満徹の作品を「音楽以前」と一行で片付けた有名な「進歩的」「近代的」評論家がいたことは、人口に膾炙(かいしゃ)している逸話だが、政治や社会的事象に対して"保守的"か"革新的"かを問わず、権威を持った宗匠はなぜか芸術の新しい動きに対しては冷たく抑圧的に動くのである。
そのような漣の中に置かれたこの作品は、いくつかの見逃せない特徴を、構成と画面と言葉に持っている。
物語は、メメクラゲに噛(か)まれた少年が、出血多量で死の恐怖にさらされるところからはじまる。探せども探せども医者は見付からず、ようやく婦人科医のところに辿(たど)りつく。夢の中で少年は彼女と交わる。それはシリツ(手術)という言葉で表現されている。
婦人科医が登場する場面では、海上に軍艦が浮かび、砲撃戦が展開されている光景が額縁の中でのように遠くに描かれている。
最初の、少年が怪我(けが)をする場面でも、上空を飛んでいる飛行機は戦争中の敵機かもしれない不気味さである。
次の段落で、少年が飛び乗った汽車は後へ後へと走って、もとの村に戻ってしまう。風鈴が暗い光線の中に浮かんで、「こういうところをひと目、母にみせたかった」と少年は目をつぶって考える。
もとの村に舞い戻って医者を探す少年に眼科の看板ばかりが見えてくるのも、暗喩(あんゆ)と読めば、深い味が隠されているようだ。
理性の否定と次の段落でのエロスの登場。しかし、その間に、母との訣別(けつべつ)、桃太郎変じて金太郎のエピソードが何げなく挿入される。その上で、エロスは血と暴力の臭(にお)いを伴って描かれる。
このように作品を見、かつ読んでくると、漫画は権威者の論評とは関係なく、その頃から多様な個性の時代に入ったということができよう。そこには文明批評あり、ノマド志向あり、劇的なSF空間の展開があり、そして「私小説」もある。
こうした百花斉放の状況は、文学分野の低迷と著しい対照を見せていると言ってもいいのではないか。原因はいろいろ考えられるけれども、漫画に較(くら)べて過激な精神と劇的構成を文学が失っているからではないだろうか。
「ねじ式」はいろいろな意味で新しい時代が到来したことを示していた。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 1996年4月13日
朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。
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