書評
『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)
人生の意味は「ただ生きる」
昨今の哲学界隈(かいわい)をにぎわすトピックが、「実在論」の新たな潮流である。そこには複数の流派があり、評者が理解し得た範囲では、フランスのカンタン・メイヤスーによる「思弁的実在論」と、本書の著者、ドイツのマルクス・ガブリエルによる「新実在論」が代表的なもののようだ。ガブリエルは弱冠二十九歳にしてドイツの名門ボン大学の哲学科主任教授となった俊英だ。もともと「ドイツ観念論」を専門としてシェリング研究で評価された研究者だが、本書が二〇一三年六月に発売されるやベストセラーとなり、彼は一躍思想界のスター的な存在となった。
いわゆる「言語論的転回」以降のポストモダン思想は、「相関主義」ないし「構築主義」と呼ばれる。カント以降の哲学では、人間は世界や事物のありのままの姿(物自体)を知ることはできないとされる。人間にとっての事物の存在は、常に人間の認識能力との相関のもとにあり(相関主義)、むしろ世界は言語をはじめとする人間の認識能力によって構築されることになる(構築主義)。これらがカント以降の哲学における共通認識だったが、ポストモダン思想はさらにそれを推し進めた。人間の認識能力は多様であり、人の数だけ真実が存在する。言い換えるなら、唯一絶対の真実は存在しない、と考えるのだ。
メイヤスーやガブリエルの「実在論」は、こうしたポストモダン的相対主義を批判的に乗り越え、絶対的な実在を擁護しようとする。
本書におけるガブリエルの主張は、要約すれば以下の通りだ。「世界は存在しない。しかし、それ以外のあらゆるものは存在する」
ガブリエルが出している例で言えば、三人の人がソレントやナポリからベズビオ山を眺めているとして、古い実在論では実在するのはベズビオ山のみ、ということになる。構築主義では三人の視点から見た三つのベズビオ山があると考える。新実在論では、視点から独立したベズビオ山に三人の視点からのそれを加えた四つの山があると考える。
このような結論になるのは、ガブリエルが「存在」の定義を変えたためである。彼によれば「存在する」とは「何らかの意味の場に現象すること」である。この定義のもとで存在を捉えるなら、あらゆる存在はそれについて考えることを可能にするメタ的な「意味の場」を必要とする。しかし唯一、「世界」にとっては、メタ的な場は存在しない。なぜなら世界とは、あらゆる意味の器にほかならないからだ。あなたが世界に<ついて>考えているとき、その対象はもはや<世界そのもの>ではあり得ない。よって「世界は存在しない」。
メイヤスーの議論にもそうした傾向があるが、率直に言えば、この論証には、少々言葉遊びめいたところがあることは否定できない。「存在」を定義づけた時点で「世界」は予(あらかじ)め排除されているのだから。
しかしそれでも評者がガブリエルの思想に希望を見出(みいだ)すのは、たとえば次のような一節ゆえだ。「世界が存在しないことが、意味の炸裂(さくれつ)を惹(ひ)き起こす」。ガブリエルの言うように、「人生の意味」は、ただ「生きるということ」にほかならない。なぜなら人間は、「ただ生きる」だけで、尽きることのない意味の生成に参与することができる「存在」なのだから。そして世界の不在こそが、それを可能にするのだから。(清水一浩訳)
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