"女医第一号"荻野吟子の生涯
第六十三回の直木賞に選ばれた渡辺淳一の書きおろし長編である(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1970年)。日本の女医第一号といえば、一般にはシーボルトおいねを連想するかもしれないが、それは正しくない。正確にはその第一号となったのは、荻野ぎんという北埼玉出身の一女性であった。
俵瀬村の旧家の五女に生れたぎんは、御一新後まもなく、八里先の豪農稲村家へ嫁ぐが、一年たたないうちに病を得て実家へ戻ってくる。その病は夫にうつされた淋病であった。抗生物質のなかった当時、この病は一生なおりきれない業病であり、それがもとでぎんは離縁となる。順天堂病院で院長佐藤尚中から診断を受けたぎんは、医師とはいえ、残酷な姿勢を命じられ、秘所をのぞかれたことに羞恥をこえた屈辱を感じる。その折りの心理的な傷と、時折りおそうやけつくような痛みから、女医になることを念願したのだった。
しかし女医となる道はきびしく、また遠かった。第一、官立の学校はもとより、私塾さえ女子の入学を許すところはなかった。学校がだめなら、もとより医師試験は許されるはずもなく、彼女の望みは、狂気の沙汰としてうけとられた。明治六年に二十三歳で上京したぎんは、東京でも五本の指に数えられる国学者の井上頼圀に学び、一時甲府の内藤塾に移った後、新設された女子師範(現在のお茶の水女子大)に入学する。
学問好きな娘を生んだのは家門の恥だといった考え方がつよく、まだ女大学的な認識が支配的だった当時に、勉学の道に進むことは、学資の十分でないぎんにとっては容易ではなかった。しかも彼女の目的は女医になることであった。二重三重の壁を破って、つき進んでゆかなければならない。そのために陸軍軍医監の石黒忠悳(ただのり)を説得して、医学校の好寿院に入り、さらに医師開業試験をうけるために、石黒や長与専斎(当時の衛生局長)までを動かす。
こうして荻野ぎんが政府公許の女医となったのは、明治十八年三月、彼女が三十五歳の春のことだ。彼女は本郷に産婦人科のささやかな医院を開業するが、その城を築くまでにぎんが流した血と汗は、そのまま女性にたいする社会の偏見との闘いであった。
ぎんは女子師範に入ったとき、その古風な名前を改め、吟子と自称するようになったが、胸をはって生きようとする彼女の姿勢は、やがてキリスト教への開眼となり、海老名弾正から洗礼をうけ、さらにキリスト教婦人矯風会の運動に発展してゆく。肉体のいたみを心のバネとして、けんめいに歩んできた吟子は、ここで社会的な問題に目覚めたのだ。矯風会が廃娼運動を方針のひとつに選んだのも、彼女の積極的な発言によるものだった。
改良主義的な限界はあったが、彼女たちの運動は一定の社会的役割をはたした。そのままでゆけば荻野吟子は社会運動家として名をなしたかもしれない。だが運命は急に違った方向に彼女をむかわせ、十五歳も年下の夫とともに、北海道に神の理想郷をつくるために渡り、開拓の夢に破れ、夫に死別れ、町医者としてさいはての地で死んでしまう。
心臓移植ものを手がけて話題をよんだ渡辺淳一は、受賞作「光と影」で西南の役以後の歴史の明暗を二人の人物の歩みのなかに彫りこんでみせたが、「花埋み」では女医の道を切開いた荻野吟子の六十三年の生涯をたどって、社会的な目のひろがりを示したといえよう。