書評

『シュニッツラーの世紀―中流階級文化の成立1815‐1914』(岩波書店)

  • 2018/05/24
シュニッツラーの世紀―中流階級文化の成立1815‐1914 / ピーター ゲイ
シュニッツラーの世紀―中流階級文化の成立1815‐1914
  • 著者:ピーター ゲイ
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(359ページ)
  • 発売日:2004-11-26
  • ISBN:4000234021
内容紹介:
フロイトが自らの「ドッペルゲンガー」と呼んだ作家シュニッツラー。深層心理に興味を持ち、性本能をテーマにした作品を世に送り出した作家の作品世界は、また作家自身の生き方を反映したものであった。「ヴィクトリア時代」として束ねあげた西洋ブルジョワ社会の歴史を、世紀転換期ウィーンで活躍し… もっと読む
フロイトが自らの「ドッペルゲンガー」と呼んだ作家シュニッツラー。深層心理に興味を持ち、性本能をテーマにした作品を世に送り出した作家の作品世界は、また作家自身の生き方を反映したものであった。「ヴィクトリア時代」として束ねあげた西洋ブルジョワ社会の歴史を、世紀転換期ウィーンで活躍したこの小説家・劇作家が遺した膨大な『日記』の解読を通して、中流階級の「伝記」として描き出す。大量の資料を引用しつつ、両義的な側面をもつ生身の人間の姿を浮彫りにし、この「シュニッツラーの世紀」が、偽善に満ちた堅苦しい時代という従来の神話的なイメージに収まらないことを明らかにする。「ヴィクトリア時代」は、さまざまな感情に関わる烈しい矛盾を抱えていた点で現代と通底すると同時に、そのまばゆい豊かさによって現代を凌駕する。精神分析的手法を駆使して複眼的に歴史を分析し、巧みな叙述で読者に「読む悦び」を与える本書は、歴史の描き方をめぐる碩学の到達点を示す労作。

妖しく甘美な昔日の世界

ヴィクトリア時代の中流階級文化は、偽善と抑圧をキーワードに語られることがおおい。ピアノの脚に布や紙で覆いをしたのも、女性の脚を連想させるからだ、などと。だからこそ、神経症と不安の文化(フロイト)とされてきた。

ところが本書―ヴィクトリア時代は十九世紀西洋文明全体の呼称―を読むと、そんなイメージは杜撰(ずさん)な裁断ではないかと思い知らされる。十九世紀半ばをすぎたころ、アメリカの教養ある妻は夫宛(あて)の手紙にこう書いているのである。「次の土曜日にあなたの溜(た)まっているものを出してあげます」と。ヴィクトリア時代の中流階級が積極的な性生活をいとなんでいたことが多くのデータと資料によって証言されている。

性だけでなく、攻撃衝動、不安、宗教、労働、趣味、プライバシーの深層心理が暴かれている。中心となる資料は、「恋愛三昧」などの小説家で、フロイトにわが分身といわしめたアルトゥア・シュニッツラー(一八六二~一九三一)の日記である。同時に十九世紀欧米の文学、音楽、絵画をめぐる評論から、書簡、伝記、生き方読本、礼儀作法書までからのめくるめくような博覧強記にもとづく証言が繰り出される。教会の教えやしきたりではなく、ブルジョアの生活と精神の実相が解明される。かくてヴィクトリア時代人が「上品ぶり」の同義語だとすると、「ヴィクトリア時代人は『ヴィクトリア時代人』ではなかった」(四九頁)とされる。中流階級文化は単数ではなかったとも。

たぐい稀(まれ)なる漁色家であったシュニッツラーが数年にわたってオルガスムを丹念に記録し、「月末にはその総計を勘定」(七〇頁)していたという性的業績主義のくだりなどに出くわすと、ロマン主義的愛に縁どられ、性が聖礼とされた(脱官能化)というヴィクトリア中流文化の通念が揺らぐことはたしかだ。訳文は達意流麗。昔日の世界が妖(あや)しくも甘美に立ち昇ってくる。田中裕介訳。

【この書評が収録されている書籍】
学問の下流化 / 竹内 洋
学問の下流化
  • 著者:竹内 洋
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:単行本(302ページ)
  • 発売日:2008-10-01
  • ISBN:4120039838
内容紹介:
うけ狙いのポピュリズム化とオタク化の進む学界。紋切り型の右翼・左翼から抜け出せない論壇。書店にあふれるお手軽な「下流」新書…書き手として、読み手として考える「教養主義の没落」後の教養。

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シュニッツラーの世紀―中流階級文化の成立1815‐1914 / ピーター ゲイ
シュニッツラーの世紀―中流階級文化の成立1815‐1914
  • 著者:ピーター ゲイ
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(359ページ)
  • 発売日:2004-11-26
  • ISBN:4000234021
内容紹介:
フロイトが自らの「ドッペルゲンガー」と呼んだ作家シュニッツラー。深層心理に興味を持ち、性本能をテーマにした作品を世に送り出した作家の作品世界は、また作家自身の生き方を反映したものであった。「ヴィクトリア時代」として束ねあげた西洋ブルジョワ社会の歴史を、世紀転換期ウィーンで活躍し… もっと読む
フロイトが自らの「ドッペルゲンガー」と呼んだ作家シュニッツラー。深層心理に興味を持ち、性本能をテーマにした作品を世に送り出した作家の作品世界は、また作家自身の生き方を反映したものであった。「ヴィクトリア時代」として束ねあげた西洋ブルジョワ社会の歴史を、世紀転換期ウィーンで活躍したこの小説家・劇作家が遺した膨大な『日記』の解読を通して、中流階級の「伝記」として描き出す。大量の資料を引用しつつ、両義的な側面をもつ生身の人間の姿を浮彫りにし、この「シュニッツラーの世紀」が、偽善に満ちた堅苦しい時代という従来の神話的なイメージに収まらないことを明らかにする。「ヴィクトリア時代」は、さまざまな感情に関わる烈しい矛盾を抱えていた点で現代と通底すると同時に、そのまばゆい豊かさによって現代を凌駕する。精神分析的手法を駆使して複眼的に歴史を分析し、巧みな叙述で読者に「読む悦び」を与える本書は、歴史の描き方をめぐる碩学の到達点を示す労作。

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初出メディア

読売新聞

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