書評
『ザボンの花』(みすず書房)
書店でこの本を見た瞬間、手に取らずにはいられなかった。表紙の色がいい。とっても綺麗な、深い赤。『ザボンの花』(みすず書房)というタイトルと一体になって、その本の中には何か上等の愉しみが詰まっている感じがした。絶対に面白いに違いないという確信があった。
私は今まで庄野潤三小説はまったく読んだことがなかったのだけれど、この一冊ですっかりファンになった。私にしては珍しく毎晩ゆっくりと少しずつ読んだ。そういう読み方をさせる小説なのだ。三晩かかって読み終えた時は、もう、この小説の世界から離れなければいけないのかと、ちょっと淋しかった。
舞台は昭和三〇年代初頭の東京。と言ってもそうとう郊外で、あたりは麦畑や雑木林が広がっている。ぽつんと建つ一軒家には数年前に大阪から越して来た若い夫婦と三人の子ども、そして一匹の犬が暮らしている。
そんな若い一家の日常生活スケッチだ。あとがきによると、大阪から東京に引越した著者一家がどんなふうにして暮らしているかを、大阪にいるお母さんに知らせるつもりで書いたという。強いテーマはない。文章に飾り気もない。それなのにスイスイ読んでしまうのは勿体ないと思わせる、深い味わいがある。小さな日常を描きながら、どこか大きく、健やかな美しさがある。
私が好きなのは、例えばこんなくだりだ。一家の主婦の名前は千枝というのだが、クリスマス・ツリーのためにヒマラヤ杉の苗木を買おうとすると夫に反対される。「木を植えるということは、そういうけちな考えのものではない。木を植えるのは、もっと気宇雄大な精神のものだ」と夫は言うのだ。
千枝は心の中で思う。「プラタナスの木の大枝の上で、大風に向かって嵐だあと叫ぶ方が、クリスマス・ツリーのためにヒマラヤ杉の苗木を百円で買うより、ずっといいに決まっている」「千枝は、そもそも、木に登って嵐だあと叫びたい人間であり、そんなふうに育てられてきたし、そんな風に生きて行きたいのだ」
現実の生活はそれを許さないものだけれど、そんな思いを心の底に持っている人間と持っていない人間とでは何かが違う。千枝は「平凡な主婦」であっても、自分の頭でよく考え、ていねいに生きている。男の人によってこういう種類の「平凡な主婦」像が描かれるのは案外珍しいんじゃないか?
三人の子ども、特に「自分の持ち物を失うことがなによりも辛い」性格の幼い末っ子の描写が生き生きとしていて、映画のように目に浮かぶ。全編にウッスラと漂う、明朗な無常感(とでも言うべきもの)も味わい深い。
【新版】
【この書評が収録されている書籍】
私は今まで庄野潤三小説はまったく読んだことがなかったのだけれど、この一冊ですっかりファンになった。私にしては珍しく毎晩ゆっくりと少しずつ読んだ。そういう読み方をさせる小説なのだ。三晩かかって読み終えた時は、もう、この小説の世界から離れなければいけないのかと、ちょっと淋しかった。
舞台は昭和三〇年代初頭の東京。と言ってもそうとう郊外で、あたりは麦畑や雑木林が広がっている。ぽつんと建つ一軒家には数年前に大阪から越して来た若い夫婦と三人の子ども、そして一匹の犬が暮らしている。
そんな若い一家の日常生活スケッチだ。あとがきによると、大阪から東京に引越した著者一家がどんなふうにして暮らしているかを、大阪にいるお母さんに知らせるつもりで書いたという。強いテーマはない。文章に飾り気もない。それなのにスイスイ読んでしまうのは勿体ないと思わせる、深い味わいがある。小さな日常を描きながら、どこか大きく、健やかな美しさがある。
私が好きなのは、例えばこんなくだりだ。一家の主婦の名前は千枝というのだが、クリスマス・ツリーのためにヒマラヤ杉の苗木を買おうとすると夫に反対される。「木を植えるということは、そういうけちな考えのものではない。木を植えるのは、もっと気宇雄大な精神のものだ」と夫は言うのだ。
千枝は心の中で思う。「プラタナスの木の大枝の上で、大風に向かって嵐だあと叫ぶ方が、クリスマス・ツリーのためにヒマラヤ杉の苗木を百円で買うより、ずっといいに決まっている」「千枝は、そもそも、木に登って嵐だあと叫びたい人間であり、そんなふうに育てられてきたし、そんな風に生きて行きたいのだ」
現実の生活はそれを許さないものだけれど、そんな思いを心の底に持っている人間と持っていない人間とでは何かが違う。千枝は「平凡な主婦」であっても、自分の頭でよく考え、ていねいに生きている。男の人によってこういう種類の「平凡な主婦」像が描かれるのは案外珍しいんじゃないか?
三人の子ども、特に「自分の持ち物を失うことがなによりも辛い」性格の幼い末っ子の描写が生き生きとしていて、映画のように目に浮かぶ。全編にウッスラと漂う、明朗な無常感(とでも言うべきもの)も味わい深い。
【新版】
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