書評
『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』(中央公論新社)
見晴らしのよい「最強の民族音楽」史
小学生のころ、変に思っていた。音楽室の壁にずらーっと並んでいる音楽家たちの肖像。「音楽の父」バッハからモーツァルト、ベートーベンをへて、ドボルザークあたりまでだったか。音楽って西洋にしかなかったの、音楽ってたかが二百年ほどの歴史しかないの、と。「クラシック」を「世界最強の民族音楽」として歴史空間のなかで描きだす本書を一刻も惜しむように読み進めるうち、この疑問はすっかり氷解した。音楽通史なんて40歳前の「怖いもの知らず」か60歳以降の「怖いものなし」にしか書けないと言われてきた著者は、音楽史の蛸壺(たこつぼ)化した共著論文集に嫌気がさし、45歳にしてその通史の執筆に挑んだのだ。
目の醒(さ)めるような記述にそれこそページを繰るたびに出あう。
音楽を書くこと、設計することの意味、「水平」進行から「立体」構築への変化、(ドイツやウィーンでなく)ベネチアとフランドルとパリの音楽史における重要な位置、クラシックの創生期と現代のポピュラー音楽の登場時において英国が占めた共通のポジション、バッハの方法と同時代の潮流との大きなずれ、交響曲と弦楽四重奏曲との対比が近代市民生活における公私の区別に対応していること、ベートーベンが社会主義や進化論と共有していた時間の理念、さらには彼の技法と「勤労の美徳」との結びつき。
あるいは、器楽曲の出現と抽象美術との本質的な類似、音楽におけるダンディズムとスノビズム、音楽の限界を前にしてストラビンスキーとシェーンベルクがたどった反対ベクトル、「誰が何を作るか」から「誰が何を演奏するか」への聴衆の関心の変化、20世紀後半の同時代現象としての前衛音楽と巨匠の名演とポピュラー音楽……。
最後に掲げられる問い、それは次のようなものだ。――「根底から何かが変わってしまって、二〇世紀前半までを説明するのと同じ論法では、もはや音楽史を把握しきれない状況が起きているのではないか?」
音楽を語るのに臆病(おくびょう)だった私が、見晴らしのよい台地に立った気分になった。
朝日新聞 2005年12月18日
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