書評
『ベートーヴェン――音楽の哲学《改訂版》』(作品社)
アドルノ、ベートーヴェン、「たまごっち」
半日ほど前に最終段階(だと思うけど)「アダルトっち」に変身したわたしの「たまごっち」は、小さなカプセルの中で睡眠中である。(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆年は1997年頃)先日の朝日新聞の「天声人語」は、「たまごっち」は「だっこちゃん」、「フラフープ」以来のブームと示唆していた。それに付け加えれば「ドラクエ」以来なのかもしれない。どちらにしても、十年に一度の大ブームだから、今世紀最後の狂乱状態ということか。
さっき早朝の散歩の途中、石神井銀座の中を通過していたら、開店前の玩具屋の前に数十人の列があった。「どうしたの?」と訊ねると「今日『たまごっち』売るらしい」と中学生らしい男の子が答えた。「らしい」で並ぶか。別の子も「ぼくも友達から聞いた。売るらしいって」。
家に帰り、ラジオをつけるとFMからglobe、trf、それから安室に華原の歌声が流れてくる。本日は小室哲哉の特集。それでもって、机の上にはここ数日、「たまごっち」をやりながら読んでいる『ベー卜ーヴェン 音楽の哲学』(T・W・アドルノ著、大久保健治訳、作品社)。
どうして「たまごっち」はこんなに流行るのだろう。名前が可愛いから? たまごっち、ぐっち、ゔぇるさーち? わからない。小室哲哉の音楽はなぜあんなに流行るのか。いつもなにかに似ているからなのか。やっぱり、これもわからない。
他人の口真似をすると、わかったようなことはいえるが、実のところは納得していない。そういうことがほんとに多いのである。
アドルノは音楽家にしてフランクフルト学派を代表する哲学者。『ベートーヴェン』でアドルノがやったのは、ベートーヴェンの作曲技法を研究することによって、ベートーヴェンの意図を明らかにすることだった。「音楽は自らが意図することを語ることはできない。音楽が語りえないことを代わって語れるのは、哲学しかない。音楽の代弁をし、音楽の本質を明らかにし」(訳者)ようとしたのがアドルノなのだ。つまり、あるピアノソナタの、ある小節から別のある小節までの間の音の連なりを、言葉で表現するとどうなるのか。いや、言葉でいい換えられるのか。無理だ。ふつうはそう思う。純粋器楽には意味がなく、ただ音だけ、あるいは音の美しさだけがある――と考えてしまう。アドルノはそういう常識を木っ端みじんに粉砕する。
たとえば、ベートーヴェンが得意とする、次々と発展してゆく変奏。あれはただ形式として変奏してゆくのでも、聞いて心地いいから変奏してゆくのでもない。一つのテーマを受け継いで、なにかを加えて加工し次に渡し、またなにかを加えて加工し次に渡す。それは社会的労働の姿を模倣したものだとアドルノは断定する(ハイドンの作品がマニュファクチュアの労働に似ていて、モーツァルトの作品からはどんな労働の姿も見えないという指摘にはぶっ飛ぶ)。ベートーヴェンの音楽は、というか作曲した作品は、一つの大きな生きた体系になっている。それは彼が依拠した市民社会そのものだ。だから、ベートーヴェンの音楽は、市民社会というイデオロギーを音に翻訳したものだということになり、それ故正確に分析することができるのは哲学だけということになる。
そのすべてをアドルノは楽譜の分析だけでやってのける。見えないものを見えるようにするのが批評なら、アドルノのやり方こそ批評と呼ぶにふさわしい。「たまごっち」やコムラーの分析ぐらいできなきゃなあ……。
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