音楽の「なぜ」を精密に語ることばたち
なぜここはこの音? なぜここはこの色?無数の音程や響きからたった一つの音が選びだされる。無数の明度や色調からたった一つの色が選びだされる。そこには、この音、この色以外、絶対ありえない。微(かす)かな肌合いのずれも許せない、その精密さというのはどこからくるのだろう。それが見えたとき「芸術」作品のほんとうの理解がはじまるのだとしたら、音痴で「色弱」(子どものころから医師にそう診断されてきた)のわたしなど、「芸術」にははなから縁なしと言うほかない。そしてこれまで、批評家のだれも、すくなくともわたしにはその「なぜ」を教えてくれなかった。
コンサート会場での演奏を拒絶し、「息を吹きかけてキーが下がらないピアノは弾きたくないね」とか「同じ運指で三度と弾いたことはありません」などとうそぶき、カラヤンにピアノとオーケストラの別収録を提案し、録音中は、楽譜や作曲者の指示を改変し、鍵盤を叩(たた)きながら低い声で歌い、空いた手で指揮する……。生前、ともかく物議をかもしつづけた「天才肌」のグレン・グールド。その口から次々とこぼれる言葉は、その「なぜ」を語ってくれる。「なぜ」は楽曲の構造をめぐるものなので、わたしには漠としか理解できない。けれども、〈精密〉を照準とした発言であることはわかる。
グールドの講演原稿やインタビュー記録、彼が作ったラジオ番組の台本などを集めた本書からは、グールドが、電子媒体を駆使して、音楽とそれをめぐる言説にどのような革新を持ち込もうとしたのかを知ることができる。バッハからシェーンベルクまでの音楽史から何を聴きとるべきかについてのグールド自身の一貫した鋭い考えにふれることができる。聴く者が音楽の創造に参加するというのがどういうことかがイメージできる。
みずからフレーズを弾き、レコードやテープを聴かせながら、作曲と変奏と演奏と聴取の何かを語りつづけたグールドのラジオ番組、それをしょっちゅう耳にできたトロントの市民がうらやましい。