書評
『航空事始―不忍池滑空記』(光人社)
空に憑かれた男たち
上野不忍池についてはチトくわしい。なんたってこの池と動物園に育ててもらったようなものだもの。この池は江戸湾の奥入江、つまりは太古の海の遺溝だが、また受難の池といってよい。上野寛永寺の霊場に組み入れられたおかげで、姫ヶ池や千束池のように埋め立てられずにすんだものの、お詣りや蓮見ついでの出会茶屋ができて、その排水で汚されるは、明治に入ると、周りを埋め立てて競馬場はできるは。第二次大戦中は食糧増産の不忍田んぼ、戦後は不忍野球場構想、そしていまや地下駐車場構想と、よくもこうイタめつけてくれるよな、って感じである。
この池の上空で一九〇九(明治四十二)年十二月、グライダーが飛んだ。日本の公式初飛行である。それは初耳。村岡正明『航空事始』(東京書籍のち光人社)、副題の「不忍池滑空記」に惹かれて読みはじめると滅法おもしろい。空を飛びたい。これはダヴィンチ以来の人類の夢である。
日仏比較文化論を研究する著者は、フランスでは有名なこの飛行が、なぜ日本では知られていないのか、疑問に思って調べはじめた。もっとも権威ある「日本航空史年表」に一行の記載もないそうだ(私も、知っていたのは同年六月二十八日、英人ハミルトンが、やはり不忍池上空を軟式飛行船で初飛行した方である)。
主役は三人。フランス大使館付武官ル・プリウール。自由人で、突拍子もないことを思いついては実行に移す人。前年より空を飛ぶ夢にとりつかれ、竹にキャラコの布を張ったグライダーを背負って自宅のある青山の急坂を駆けおりていた。その近くに住む海軍大尉相原四郎にこの熱が伝染し、やはり航空に興味を持っていた東京帝大教授田中館愛橘に彼を紹介する。田中館五十二歳、相原二十九歳、ル・プリウールニ十四歳。年はかなり違うが情熱を共有した三人は、協力してグライダー製作にはげむ。
じつは不忍池に先立つ十二月五日に、本郷弥生町一高グラウンドで実験が行われている。大人三人が代わるがわる乗ったが重くてダメで、見物の近所の子が乗るとふわり、宙に浮いた。興奮して乗せて乗せての二十人、この子たちがほんとうは日本初の飛行機乗りである。
そして十二月九日、不忍池でプリウールが乗った改良グライダーは、数メートルの高さで水平に百メートル飛んだ。が、日本の新聞は、彼の名を無視し、あとで乗り込んだ相原大尉の手柄にしてしまい、田中館が委員をつとめる臨時軍用気球研究会の主催としたばかりか、実験は失敗と決めつけた。名誉心を傷つけられたプリウールは暮れの二十六日、機体にわが名を大書し、再び不忍池畔のガス灯をかすめ、高々と空に舞い上がる。
新資料を駆使し、フランスまで行ってプリウールの人となり、発明家としての後半生も調べている。漱石、志賀直哉ら同時代人の感想も採られている。
欲をいえばなぜ不忍池畔だったのか、突っ込んでほしかった。それには吉見俊哉『博覧会の政治学』(中公新書のち講談社)が手がかりになろう。帝国主義、消費社会、大衆娯楽の要素を融合させた博覧会という装置は、近代日本ではまさに上野に現われたのである。観覧車、ウォーターシュート、ロープウェイ、電車、飛行船とならび、グライダーもここで初目見得することが「眼目の教」ではなかったか。それでこそ臨時軍用気球研究会との連関がはっきりはしないか。
ともかく飛行機誕生は「頭の悪い行動人の、能率の悪い歴史」であった。かしこいよりもおろかしいことこそが尊い。個性的な主役たちの単純無心な情熱が著者にもあふれ、私にも伝わる。しばらくぶりに飛ぶ夢を見そうな、楽しい本だった。
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