書評
『ロシアと黒海・地中海世界──人と文化の交流史』(風行社)
奴隷交易が与えた影響をひもとく
江戸幕府の鎖国体制のなかでも、18世紀末にはいち早くロシア船が北海道に来航し、漂流民を護送するとともに通商を求めた。アメリカのペリー来航より半世紀以上も前の出来事である。それにもかかわらず、ロシアは近くて遠い国である。まして中近世のロシアともなれば、われわれ日本人の目が届きにくいところにある。ルーシとよばれたロシア人自身からして西方や南方に目が向きがちであったから、シベリアの彼方(かなた)にある小国など眼中になかっただろう。しかし、グローバル・ヒストリーとしての世界史を考えれば、きわめて重きをなす問いかけになる。前近代のロシアにとって、クリミアなどの黒海から地中海にわたる領域は、ビザンツ、モンゴル、オスマン諸帝国やイタリアとの交易・交流の舞台をなしていた。
中世後期の14―15世紀を通じて、ロシアには政治統合の中心をなす二つの勢力、モスクワとノヴゴロドがあった。ノヴゴロドは北西部の河川水路を介してバルト海に通じハンザ諸都市と連なっていたが、モスクワはドン川水路を介して黒海から地中海に通じイタリア商人と取引をしていた。どちらも主な輸出品は毛皮と蝋(ろう)であり、輸入品は毛織物、銀、明礬(みょうばん)、ガラスなどほとんど同一の貿易構造だった。
だが、したたかなジェノバやベネチアの商人は、東方の奢侈(しゃし)品や黒海沿岸の穀物・魚類などとともに、カフカース人、ロシア人、タタール人などの奴隷を船積みし、地中海各地の奴隷需要者に売りさばき、莫大(ばくだい)な利益をあげていた。
特にジョージアの山岳地方に住むチェルケス人は注目を集めた。青年は勇敢で騎馬に長じていたからエジプトではマムルークとして大量に買い取られ、美しい娘たちも高価格であったが引く手あまただったという。
タタール人はしばしばロシア人集落を略奪したので、15世紀にはロシア人奴隷が多勢を占めた。北方のロシア人のなかでもノヴゴロド系の武装略奪者集団が勢いづき、河川沿いの村や都市を襲撃した。
ところが、15世紀半ばに、オスマン帝国の侵攻でコンスタンチノープルが陥落すると、モスクワは黒海・地中海との結びつきを失ってしまう。だが、名君イワン3世はイタリア人の軍事技術を採りいれ、とりわけ大砲技術を著しく進歩させながら、数々の遠征に勝利した。やがて宿敵ノヴゴロドをも併合し、イタリアから輸入した紙で土地台帳を作成するなどして、支配行政の管理体制を確立する。
そもそも黒海沿岸地方は古代から奴隷交易と結びついていた。オスマン帝国の覇権が拡(ひろ)がると、黒海からイタリア商人は追放され、イスラム商人を中心にギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ商人などが奴隷交易に携わるようになる。オスマン保護下のクリミア・タタールは捕虜略奪をくりかえし、チェルケス系奴隷やスラヴ系奴隷が大半を占めた。このため16世紀以降、ロシア人捕虜奴隷はモスクワ国家にとって外交課題であるとともに、財政をふくんで大きな社会問題になっていたという。
本書は論文集であり、黒海の奴隷交易ばかりでなく、東方イスラム世界との関わりや東方聖地巡礼の諸問題などもとりあげている。だが、専門研究者として解析するにとどまらず、一般読者にも分かりやすくなるように配慮されており、著者の人柄をしのばせる。
この春の余命宣告後、著者の研究者仲間の協力で整理・編集されたというが、本書の刊行が著者の旅立ちに間に合ったかどうかは定かではない。
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