書評
『考証日ソ中立条約―公開されたロシア外務省機密文書』(岩波書店)
「国益」とは何だろうか
「考証」と枕詞(まくらことば)が付されていると、難解さを予想するむきがあるかもしれない。しかもテーマがそのものズバリ「日ソ中立条約」とあっては。しかしその懸念はまったくの杞憂(きゆう)にすぎない。ジャーナリストである訳者たちとの共同作業的な要素もある本書は、最近公開されたロシア外務省の機密文書をフルに利用しながら、一気に読める歴史物語的構成になっている。本書で明らかにされたのは、スメターニン、マリクと続く二代にわたる在京ソビエト大使の日記と日本要人との会談記録、それに本国宛ての状況報告やマスコミ論調の分析、さらには対日政策の提言など、いずれも興味深い資料だ。とりわけスターリン、モロトフと、松岡洋右(ようすけ)外相、建川美次(よしつぐ)大使、佐藤尚武大使との会談記録は、読みやすくするための若干の修正が施されているにしても、本書中の白眉(はくび)をなす記述と言ってよい。
こうして「日ソ中立条約」を読み解くにつれて、全体主義と民主主義という東京裁判で明らかにされた単純なイデオロギー的枠組みには到底収まりきらない、国際政治の複雑な有り様が白日の下に晒される。状況によって左右されるイデオロギー的要素、歴史的因縁が常に想起されるゲオポリティーク(地政学)的要素、それらすべてに自国にとっての国益とは何かという絶対的命題が貫かれる。
最もドラマチックなのは、中立条約締結をめぐるスターリンと松岡の会談だ。スターリンが日独伊三国同盟への参加による四国条約の成立に同意した事実もさることながら、松岡が「政治的、社会的」ならぬ「道徳的共産主義」には賛成で、日ソ提携によりアングロサクソン的資本主義に対決する構図を明確にしているのは、戦中の日ソ関係を考える上で示唆的である。
「日ソ中立条約」の崩壊過程は、とりわけある年輩から上の戦争体験者にとって、忘れることのできぬ出来事であろう。本書の記述に見る限り、外交上の取引手段を喪失した日本にとって、やはりそれは恰(あたか)も蛇の生殺しにも似た過程であると共に、アメリカをも含んだ国際的な権力構造のもたらす冷厳な結末であったと言わざるをえない。
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