書評
『ミスターオレンジ』(朔北社)
子供のころの読書の輝かしい喜び
おもしろい本を読んでいるときの、子供のころのふっくらした時間の充実感は、大人になるとなかなか得難い。あれは、どうしてなのだろう。大人になると、(子供のころに較(くら)べれば)世界を知った気になっているからだろうか。あるいは、自分の持ち時間に限りがあることを、実感として知ってしまっているからだろうか。何の計算もなく、何も持たずに、ただ本のなかに入って行って、言葉を追い、その言葉が立体的になって一つの時空間が発生し、ここがそこになり、それまで知らなかった人々と、ここでではあり得ないほど深く親密に知り合い、ここの現実よりずっと確かに思えるそこの現実を呼吸し、たっぷりとそれを生き、「あー、おもしろかった」と言って読み終える至福の読書体験を、当時は贅沢(ぜいたく)に享受していた。得難いとも思わずに。『ミスターオレンジ』は、そのころの読書を思いださせてくれる本だった。読んでいる時間の幸福と安心、世界を見る目が新しくなるという新鮮な体験。
一九四○年代のニューヨークに住む、一人の少年が主人公だ。学校に通う傍ら、両親の営む果物屋の配達を手伝い、弟や妹のめんどうもみるこの少年、ライナスの生活や意見や家族が、まずいきいきと描かれる。その時代のニューヨークの空気、人々、戦争(ライナスの兄の一人は、志願して兵隊になる)、といった背景も、過不足のない手ざわりでそこにあり、実際の友達や架空の友人や、否応(いやおう)なく小さくなってしまう靴や、二段ベッドを分け合う兄との関係や、その他いろいろでできた少年の日常は忙しい。
オレンジばかり配達させる一人の客と、ある日ライナスは出会う。「目が黒くて、顔の細い」、「アメリカに住みはじめて、まだ日が浅い人なのか、アクセントの強い話し方」をする、と描写されるこの男性がミスターオレンジで、この人の部屋は、壁も家具も、なにもかも白く塗られている。その白いなかに「色のついた四角」がたくさん貼りつけられており、「知りあいのどの家ともちがって」いる。ライナスはそこを、「軽い。明るい。そして空っぽだ」と感じ、「でも、空っぽといっても、いやな感じじゃない。むなしい感じでもなく、むしろ……落ちつく感じ」だと思う。この風変わりなあかるい部屋で、ライナスは男性と話をしたり、いっしょにオレンジをたべたり、レコードを聴いたり、ブギウギの踊り方を教わったりする。基本的には配達に来ているだけなので、長い時間ではない。でも、そこで過ごす時間は彼にとって驚くべき非日常であり、ミスターオレンジのような大人は、彼にとってはじめて会う種類の大人だ。
この部屋の住人は画家のモンドリアンなのだが、無論、ライナスはそんなことは知らない。作中、ミスターオレンジが未来について語る場面がある。それは、「絵画だって時代遅れになる」未来、「部屋全体が美しく」なり、「一枚一枚の絵はいらなくなる」、さらには、「町中を一枚の大きな絵にできるかもしれない」未来で、そのヴィジョンの美しさには少年ならずとも息をのんで憧れるし、でも、だからこそ、未来の大人としては胸をしめつけられもする。
戦時中であるにもかかわらず、ミスターオレンジの部屋には自由な思想があり、芸術があり、希望がある。
おまけに、本を通して世界のありようをたしかめていた、あのころの読書の輝かしい喜びも、そこにこっそりひそんでいた。(野坂悦子訳)
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