書評

『ミスターオレンジ』(朔北社)

  • 2018/11/22
ミスターオレンジ / トゥルース・マティ
ミスターオレンジ
  • 著者:トゥルース・マティ
  • 翻訳:野坂 悦子
  • 出版社:朔北社
  • 装丁:単行本(253ページ)
  • 発売日:2016-10-01
  • ISBN:4860851242
内容紹介:
一九四三年のニューヨーク。八百屋の少年ライナスは、オレンジを注文するひとりの画家と親しくなる。その人を「ミスターオレンジ」と呼び、まっしろな壁に原色の四角を貼りつけた明るいアトリエに魅了される。ナチスが支配するヨーロッパから、命がけで逃げてきたその画家は、ライナスにとって特別な存在となった。ミスターオレンジを通して、ライナスは新しい「未来」に出会い、想像の自由を守ることの意味を自分で考えはじめる…。2014年全米図書館協会「バチェルダー賞」受賞作品。

子供のころの読書の輝かしい喜び

おもしろい本を読んでいるときの、子供のころのふっくらした時間の充実感は、大人になるとなかなか得難い。あれは、どうしてなのだろう。大人になると、(子供のころに較(くら)べれば)世界を知った気になっているからだろうか。あるいは、自分の持ち時間に限りがあることを、実感として知ってしまっているからだろうか。何の計算もなく、何も持たずに、ただ本のなかに入って行って、言葉を追い、その言葉が立体的になって一つの時空間が発生し、ここがそこになり、それまで知らなかった人々と、ここでではあり得ないほど深く親密に知り合い、ここの現実よりずっと確かに思えるそこの現実を呼吸し、たっぷりとそれを生き、「あー、おもしろかった」と言って読み終える至福の読書体験を、当時は贅沢(ぜいたく)に享受していた。得難いとも思わずに。

『ミスターオレンジ』は、そのころの読書を思いださせてくれる本だった。読んでいる時間の幸福と安心、世界を見る目が新しくなるという新鮮な体験。

一九四○年代のニューヨークに住む、一人の少年が主人公だ。学校に通う傍ら、両親の営む果物屋の配達を手伝い、弟や妹のめんどうもみるこの少年、ライナスの生活や意見や家族が、まずいきいきと描かれる。その時代のニューヨークの空気、人々、戦争(ライナスの兄の一人は、志願して兵隊になる)、といった背景も、過不足のない手ざわりでそこにあり、実際の友達や架空の友人や、否応(いやおう)なく小さくなってしまう靴や、二段ベッドを分け合う兄との関係や、その他いろいろでできた少年の日常は忙しい。

オレンジばかり配達させる一人の客と、ある日ライナスは出会う。「目が黒くて、顔の細い」、「アメリカに住みはじめて、まだ日が浅い人なのか、アクセントの強い話し方」をする、と描写されるこの男性がミスターオレンジで、この人の部屋は、壁も家具も、なにもかも白く塗られている。その白いなかに「色のついた四角」がたくさん貼りつけられており、「知りあいのどの家ともちがって」いる。ライナスはそこを、「軽い。明るい。そして空っぽだ」と感じ、「でも、空っぽといっても、いやな感じじゃない。むなしい感じでもなく、むしろ……落ちつく感じ」だと思う。この風変わりなあかるい部屋で、ライナスは男性と話をしたり、いっしょにオレンジをたべたり、レコードを聴いたり、ブギウギの踊り方を教わったりする。基本的には配達に来ているだけなので、長い時間ではない。でも、そこで過ごす時間は彼にとって驚くべき非日常であり、ミスターオレンジのような大人は、彼にとってはじめて会う種類の大人だ。

この部屋の住人は画家のモンドリアンなのだが、無論、ライナスはそんなことは知らない。作中、ミスターオレンジが未来について語る場面がある。それは、「絵画だって時代遅れになる」未来、「部屋全体が美しく」なり、「一枚一枚の絵はいらなくなる」、さらには、「町中を一枚の大きな絵にできるかもしれない」未来で、そのヴィジョンの美しさには少年ならずとも息をのんで憧れるし、でも、だからこそ、未来の大人としては胸をしめつけられもする。

戦時中であるにもかかわらず、ミスターオレンジの部屋には自由な思想があり、芸術があり、希望がある。

おまけに、本を通して世界のありようをたしかめていた、あのころの読書の輝かしい喜びも、そこにこっそりひそんでいた。(野坂悦子訳)
ミスターオレンジ / トゥルース・マティ
ミスターオレンジ
  • 著者:トゥルース・マティ
  • 翻訳:野坂 悦子
  • 出版社:朔北社
  • 装丁:単行本(253ページ)
  • 発売日:2016-10-01
  • ISBN:4860851242
内容紹介:
一九四三年のニューヨーク。八百屋の少年ライナスは、オレンジを注文するひとりの画家と親しくなる。その人を「ミスターオレンジ」と呼び、まっしろな壁に原色の四角を貼りつけた明るいアトリエに魅了される。ナチスが支配するヨーロッパから、命がけで逃げてきたその画家は、ライナスにとって特別な存在となった。ミスターオレンジを通して、ライナスは新しい「未来」に出会い、想像の自由を守ることの意味を自分で考えはじめる…。2014年全米図書館協会「バチェルダー賞」受賞作品。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年1月8日

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