前書き

『デリダと死刑を考える』(白水社)

  • 2018/12/04
デリダと死刑を考える / 高桑 和巳,鵜飼 哲,江島 泰子,梅田 孝太,増田 一夫,郷原 佳以,石塚 伸一
デリダと死刑を考える
  • 著者:高桑 和巳,鵜飼 哲,江島 泰子,梅田 孝太,増田 一夫,郷原 佳以,石塚 伸一
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(270ページ)
  • 発売日:2018-11-27
  • ISBN-10:4560096716
  • ISBN-13:978-4560096710
内容紹介:
ソクラテスからオウム真理教まで! デリダで/とともに考えるのは、ソクラテスからオウム真理教まで!デリダの脱構築を手がかりに、政治と宗教と権力の力学をあぶりだし、死刑を考えるため… もっと読む
ソクラテスからオウム真理教まで!

 デリダで/とともに考えるのは、ソクラテスからオウム真理教まで!デリダの脱構築を手がかりに、政治と宗教と権力の力学をあぶりだし、死刑を考えるためのハンドブック。編者の緒言をはじめ、六人の執筆者による書き下ろし。
 本書のタイトルは、〈仮に英語にするならば「Thinking Death Penalty with Derrida」とでもなるが、「with」は「……を用いて」という意味にもなる。デリダについて考えながら、デリダを伴走者としつつ、デリダを用い、あらためて死刑制度を考えよう、というわけである〉(「はじめに」より)。
 収録論考は「ギロチンの黄昏──デリダ死刑論におけるジュネとカミュ」(鵜飼哲)、「ヴィクトール・ユゴーの死刑廃止論、そしてバダンテール──デリダと考える」(江島泰子)、「デリダの死刑論とニーチェ──有限性についての考察」(梅田孝太)、「定言命法の裏帳簿──カントの死刑論を読むデリダ」(増田一夫)、「ダイモーンを黙らせないために──デリダにおける「アリバイなき」死刑論の探求」(郷原佳以)、「デリダと死刑廃止運動──教祖の処刑の残虐性と異常性」(石塚伸一)。

デリダとともに死刑の是非について問う

本書は、ジャック・デリダが一九九九─二〇〇〇年度におこなった講義の記録『死刑I』の日本語訳(白水社、二〇一七年)刊行を承けて、死刑について、またデリダについて、あらためて考える場として構想されている。したがって、本書は『死刑I』とあわせてお読みいただくのが望ましい。

ただし、本書の読者として想定されるのはデリダの仕事に興味をもつ人だけではない。死刑制度に賛成にせよ反対にせよ関心を寄せる人に──いや、死刑制度への関心が薄い人にも──広くお読みいただければと願っている(そもそも、これは『死刑I』についても同様に言えることである)。

なぜ、本書のような企画が立てられるのか? それは、二つの困難が私たちの前にあるからである。一つは日本における死刑存廃論(とくに廃止論)の困難であり、もう一つはデリダによる議論の困難である。

これらの困難を一挙に解決するとまでは言わずとも、少なくともこれらの困難の輪郭を明確化し、今後のありうべき議論に資することが本書のねらいである。

まずは、日本における死刑存廃論(とくに廃止論)の困難について触れておく。
 
死刑制度が廃止されている国家は、事実上執行が停止されている国家を含めると、二〇一七年の時点で一四四か国であり、存置の五十七か国の二倍強となっている。各国の人口を考慮すれば比率は逆転するが(中国、インド、アメリカ合衆国(州によるが)、インドネシアなど、人口ランキングのトップ十か国のうちブラジルを除く九か国が存置国である)、これは人口がアジアに集中していることによる部分も大きく──要するに、アジアに死刑存置国が多い──、地域によっては、当該地域内の各国の人口を考慮したとしても、死刑廃止への移行は実質的に最終段階に達している(ヨーロッパ、南アメリカ、オセアニア)。事実上、全体の傾向は廃止への一方向である(つまり、不可逆的な様相を呈している)。
 
死刑制度は国内法に関わる事柄だという理由から、日本における死刑制度を考えるにあたってこのような国際的趨勢への配慮を不要と見なす立場も存在するが、そのような議論立てが、仮に日本がたとえばヨーロッパに位置していたばあいに実質的な意味をもちうるとは思えない。その意味では、存置ないし無関心の立場が、アジアという一地域での国際的趨勢を意識的にか無意識にか惰性で追認するものにすぎないという可能性も想定できなくはない(念のため言い添えるが、それはアジアには本質的な、乗り越えがたい特殊性がある、などという意味ではもちろんない)。

何よりも、法の支配、人権、立憲主義、適正手続といった数々の根本概念──国際的かつ歴史的に彫琢され受け容れられてきた──を私たちが共有するのであれば、死刑制度がそれらとの関わりで是非を問われうるのは当然である。そのように是非が問われる局面は、関連する条約──たとえば死刑廃止条約(通称)──に対する署名・批准について云々するばあいにも当然生じてくる。

にもかかわらず、死刑制度をその根本にまで立ち返って深く考えることは、日本では相当に場違いな印象を与える。たとえばだが(直接は関係しないように見えるが、並行的な考察をおこなうこともけっして不可能ではない)、死刑制度の是非を云々することはちょうど、象徴天皇制の是非(あるいは、純然たる共和制への移行の是非)を云々するのと同じくらい現実味がないように感じられるのではないだろうか? 両者はともに、理論的にせよ実践的にせよ是非を広く論じられてよい制度と思えるが、感情的であるにとどまらない積極的議論が公衆を巻きこんで展開されたことはない。

実際の執行がなされるたびに、あるいは凶悪とされる犯罪が発生したり死刑判決が下されたりするたびに、死刑制度は時事としてそれなりに話題になるとはいえ、重要な政治的論点からはほぼつねに外されている。知るかぎりでは、選挙で死刑制度の是非を第一の争点として掲げる有力候補者は存在したことがない。

世論の水準においては、死刑存廃論はあくまでも感情の問題へと縮減される。第一に語られるのはつねに、遺族の応報感情──正確には、その感情を忖度する公衆の感情──である。その他、法確信や社会防衛や犯罪抑止も、不安感ないしセキュリティ不全感との関わりで議論されるのが常である。犯罪抑止に関する議論においては、最終的には統計的証拠さえ脇に除けられることがしばしばである。重要なのはつまるところ、実感という名の不実な感覚である。

それらすべてを大きく包みこむのが、国民感情と呼ばれる漠然とした情緒である。民衆はこの感情を自らのうちに歴史的に醸成してきたものと見なされ、大多数の人々は実際にそのような情緒のうちにあると自ら信じている──ということは、そのような情緒は(歴史的に構築されたものであれ何であれ)いま、実際に存在する。

やはり引用すべきは、二〇〇二年に、日本訪問中のヨーロッパ評議会の代表団を前にして森山真弓法務大臣(当時)が悪気もなく口にしたとおぼしい、日本には「死んでお詫びをする」という文化が根づいているから死刑存置にもそれなりの根拠があるという趣旨の発言である。道徳・倫理・刑罰に関するこの種の感情が存在するのは事実である。森山の発言を心強く感ずる人々も少なくないだろう(ちなみに、森山の発言は誤解を生みやすい。死刑制度のメタメッセージは当然、「(私は)死んでお詫びをする」ではなく「(おまえは)死んで詫びろ」である)。

そのような情緒は不変のものではない。それが「日本らしさ」(そのようなものがあるとして)をつねに規定してきたわけではない。仏教思想を引きあいに出して正反対のことを主張することもできるし、平安時代に長期にわたって死刑執行が停止されていたらしいという歴史的事実を援引することもできる。ただし、これらは同水準の地域的・文化的特殊性を云々しているかぎりにおいて、結局はあまり内実ある反論ではない。

それよりも、そのような情緒を個人的にある程度理解する(さらには実感すらしている)人がいるとしても、その人がその情緒を法的水準に反映させることにつねに同意するとはかぎらないということのほうが重要だろう。言い換えれば、そのような相対化可能な情緒が、法確信の一要素として組み入れてよいほどの本質的なものであるかについてはつねに疑念の余地がある、ということである。

ともあれ世論は、原則に関する根本的な無関心とともに、つねにこの情緒のうちにある。これが日本における死刑廃止論の困難のなかでも最大のものである(なお、他方の存置論も、情緒を離れたところで内実ある議論を広範に形成することはなかった)。

この状況下で廃止論側は事実上、そのつど最高刑のアクロバティックな回避を企てざるをえないということもあり、人々の情緒に訴えることにことごとく失敗してきた──というより、有り体に言えば、むしろ人々の情緒をそのつど逆撫でしてきた。そして、成人の八割が存置容認を表明するという周知の結果(二〇一四年度の「基本的法制度に関する世論調査」)に至る。

直接の情緒から離れた本質的論点──誤判・冤罪の可能性や刑罰の残酷さ──をいまさら云々しても、世論はもはやそのような議論に耳を傾けなくなってしまったように見える。しかし、廃止論にはもともと、この問題を情緒から引き剥がすという以外の道はなかったのだろう。だとすればもう一度、いや何度でも、原則の側から論じなおすのでなければならない。情緒の国にあって、その身振りがいかに絶望的なものに見えようともである。

ちなみに、デリダの『死刑I』には誤判・冤罪の可能性に関する議論はほとんどない(後述のとおり、ほぼすべての議論が「死刑原則」をめぐる追及に奉仕すべく組織されている)。また、生の有限性に関する議論(自分ではない誰かが自分の死ぬ刻限を知っているということ自体が、生の生たるゆえんである有限性を自分から奪うがゆえに死刑はおぞましいというほどの議論)をはじめ、一見すると一種の情感──特殊的・文化的な情緒とはおよそ異質なものだが──を前提にしていると見える立論もなくはない。時局に関わる言及も少なくない。しかし、現在(二〇一八年)の日本という、死刑存廃論──とくに廃止論──にとってあいかわらず困難きわまりない状況下にあって、『死刑I』には議論をあらためて興すきっかけとなる論点が少なからず見いだせるはずである。本書ではそのうちの重要ないくつかが取り上げられ、検討されることになる。

次に、デリダによる議論をめぐる困難について説明する。

デリダの著作といえば、言葉遊びや韜晦に充ちた、長くて難解なもの、というのが通り相場である。

なるほど、『死刑I』は講義録ではある。講義録は、はじめから本として書かれたものよりわかりやすいのが常である。その講義はまた、聴講者に対して議論立てが比較的追いやすくなったとおぼしい晩年におこなわれている。さらには、論じられているテーマにブレがないこともあり、読者は「死刑」の一事を念頭に置き、集中して読解へと向かうことができる。要するに『死刑I』は、デリダの本にしては、少なくとも表面上は読みやすい部類に属すると言える。

とはいえ、読解を困難にする要素は依然として残っている。

デリダは毎回の講義(おおむね二時間)に、ほぼ完全な読みあげ原稿を準備して臨んでいた。つまり、軽薄な思いつきが長々と開陳されることも、個々の議論がそのつど水増しされることもなく、おおむね一様に濃厚な授業が続く。それが十一回ぶんあり、私たちは日本語版で正味三四〇ページほど(フランス語原典では三六〇ページほど)に及ぶ稠密な議論を辿ることを強いられる。死刑という中心的テーマが視野から消えることは、表向きはともかく内実としては一度もない。だからこそ、安易な要約を許さないみっしりと詰まった立論の連続は読者の息切れを誘ってもおかしくない。

しかも、デリダによる議論の組み立てかたは、これまでの死刑廃止論によるそれと、部分的には重なるとはいえ一致していない。彼が廃止論に与しているということは一度ならずはっきりと表明されているものの、彼が『死刑I』で企てているのは存置論の単なる排撃にはとどまらない。廃止論と存置論とからなる議論立ての全体をまるごと問いただすというのがデリダの基本的な姿勢である。

では、そのためにジャンルが哲学や文学に局限され、一本だけ太い筋の通った、見通しのよい再検討(網羅的・包括的な哲学史的検討、文学史的検討など)が提示されているかというと、そうでもない。テクストの作者は哲学者、法学者、文学者、弁護士などさまざまである。主要な作者をおおむね時代順に列挙すれば、プラトン、モンテーニュ、ルソー、ベッカリーア、ギヨタン、カント、ユゴー、マルクス、ボードレール、ニーチェ、シュミット、ジュネ、カミュ、ブランショ、ラカン、バダンテール、フーコーとなる。この一覧にさらに聖書、議事録、憲法、人権宣言、国際条約などが加わる。雑然とした文献群である。

この雑多なリストはなるほど、死刑存廃論の定番とされるテクストもおおむね網羅してはいる。だが、デリダによるそれらのテクストの読みかたは典型から大なり小なり外れている。そのような、いわばズレた読解──とはいえ、忍耐強く辿っていけばそれほど奇怪でもないことが判明するはずの読解──が、それぞれのテクストに対して(あるいは複数のテクストを重ねて、もしくは衝突させながら)企てられる。それらの読解が奔放に貼りあわされたクレイジー・キルトさながらの総体を地道に読み取っていくのは、たしかに骨の折れる作業ではある。

この点とも関わるが、『死刑I』は誤判・冤罪の可能性、遺族の応報感情、社会防衛、犯罪抑止といった存廃論の主要論点を過不足なく取りあげてはいない。デリダがこれらにまったく触れていないわけではないし、ましてやこれらを扱うことを意図的に避けているわけではないだろうが、彼はたとえば死刑存廃論の総説をやりなおすつもりで講義を組み立ててはいない。デリダにとって、また読者にとって、導きの糸となるのはむしろ「残酷さ」、「血」、「例外」、「恩赦」、「主権」、「人道」、「尊厳」、「生き延び」、「利害」といった一連の概念のほうである。これでは、それなりになじみある構成の存廃論が展開されるものと想定していた読者が、取っつきの悪さや不親切さを感じてしまっても不思議ではないかもしれない。

ただし、先回りして言えば、話題も雑多に見える『死刑I』において、最終的な標的は相当に絞りこまれてはいる。その標的とは「死刑原則」、つまり法権利のなかには死刑がもともと(法権利の理念からして当然)書きこまれていてしかるべきとする原則のことである。この原則が哲学全体にこれほどまで深く根を下ろしてきたのはなぜなのか、この原則に対抗する哲学的・文学的・法的な言説に脇の甘さがあるとすればそれはどのようなものなのか、それにもかかわらず仮にある種の利害をもってこの原則に抵抗できるとすればそれはどのような利害であるとおぼしいか──死刑存廃論の全体に徹底的な再検討を加えるこのような一連の問いは、これまでの存廃論になじんできた読者にとっても、最終的には意外なほど真っ当なものとして受け取られるはずのものではある。

だが、これらの問いを問い進めるべく諸テクストを綿密に分解していくにあたって、『死刑I』大部一巻を通して、ねっちりとした、癖の強い、独特の手つきが用いられているというのも事実である。その手つきとは要するに、デリダの商標と言ってもよい「脱構築」のことである。「残酷さ」、「血」云々といった一連の概念が前景化させられるのも、宗教的なものや政治神学的なもの(なかでもキリスト教にかかわるそれ)が議論に混入する様子が執拗にあげつらわれるのも、あるいはさらに端的に言って、個々の論点において正確を期するあまりしばしば言い換えが増殖し、表現が極端にまわりくどくなるのも、つまるところはこの脱構築なるもののゆえにである。

その語り口を毛嫌いするだけの読者は論外としても──というか、その人たちはそもそも良き読者はもとより悪しき読者にすらなってはくれないだろう──、脱構築の何たるかやその実際の展開がどのようなものであるかに不案内な人が『死刑I』の叙述に戸惑うのは理解できなくもない。とはいえ、門外漢が脱構築の何たるかをこの機会に捉えたければ、脱構築という単語が姿を現す初期デリダの代表的著作群に律儀に立ち返るまでもなく、さしあたりは、『死刑I』において死刑存廃論に対して実際におこなわれている当のものこそがまさにその実践だと理解しておけば足りる。それでもなお不安ならば──デリダの思わせぶりな文体が不安を多かれ少なかれ誘うのは事実だろう──、「脱構築とは、標的とする言説群に徹底的な腑分けを施すことである。脱構築は、不都合なものがその実践によって見いだされることを厭うどころか、むしろすすんでそのような汚れ仕事を推し進め、当の不都合なものが問題設定の全体にとって隠れた要石になっている可能性をすら示唆する。脱構築は、そのような混入や汚染を示唆することで、当の言説群によって動かされている機械仕掛けにいわば砂利を放りこみ、起こってしかるべき不調や故障をあえて惹起する」というような定義もどきを参照しておけば、当面は問題ないだろう。

だが、さらに厄介な、正真正銘の困難がある。デリダは、その脱構築の一環として、根本的な序列の数々を逆転させる可能性にまで手を掛ける。しかじかの枠組みのなかで死刑を云々するつもりが、じつは死刑のほうが枠組みに先立っているのかもしれないとすれば? デリダの誇張的言明を(そのつど慎重に示されている躊躇の身振りをここでは故意に省いて)いくつか列挙すれば、

「私たちが話す用意をしている当の決定のほう、死刑のほうが、決定の原型自体だ[……]」、
「脱構築は[……]つねに[……]死刑のこの歴史的足場の脱構築[である]。脱構築とは[……]死刑の脱構築のこと[である]」、
「プラトン哲学は、[……]端的な哲学は、ソクラテスの断罪の時点における魔物の沈黙にその場を見いだす[……]」、
「残酷さと例外の紐帯を考えるには、死刑というこの例外的に残酷なものから出発しなければならない[……]」、
「死刑のあるところであればどこであれ、政治神学的なものがある」、
「死一般に関する問いを立てるためには、死刑に関する問い[……]から出発しなければならない[……]」、
「[死刑による死の瞬間の計算可能性は]宗教と呼ばれるものの起源でさえある[……]」などとなる。これでは、読者は「単に死刑を哲学する」だけでは済まず、文字どおり哲学や宗教の全体を巻きこみつつ死刑を問いたださなければならなくなってしまう。担うにはあまりに重い荷である……。

なぜこのようなことになるのかを十全に理解しようと思えば、この試みをデリダの一連の仕事のなかに位置づける必要も生じてくるだろう。たしかに、『死刑I』は単独でも充分に読めはする。たとえばの話、死刑存廃論の脱構築は次年度まで継続されるとはいえ、その次年度講義『死刑I』を参照しなければ『死刑I』がまったく理解できないというわけでもない。とはいえ、この講義がより大きな枠のなかで構想されているということも否定できない。

具体的には、一九九七─九八年度以降、デリダの講義は「偽誓と赦し」という枠のなかで構想され(最初の二年度はその枠の名自体が講義の題目にもなっており、次の二年度の講義題目は「死刑」、そして続く二年度は「獣と主権者」となり、そこで講義は途絶した)、その全体がさらに一九九一─九二年度からの「責任の問い」という大枠に含められている(その枠内では「証言」(一九九二─九三年度から三年間)や「歓待」(一九九五─九六年度から二年間)が扱われた)。また、一九八〇年代半ばからはナショナリズムや友愛という、明らかに政治的な問題設定が扱われており、その延長線上にその後の「責任の問い」の全体があるとも言える。少なくとも二十年余りにおよぶ後期デリダの講義における大きな問題設定を曲がりなりにも理解することは、すでに挙げた「主権」や「生き延び」といった概念群をより適切に位置づけつつ『死刑I』を読解することを可能にしてくれるはずではある。

講義の変遷を辿るにとどまらず、さらには、その時期に書かれた(ないしは発表された)多かれ少なかれ関連の想定できそうなテクストも適宜参照すべきかもしれない。じじつ、『死刑I』の講義中には、自作群に対する参照──暗黙のものにせよ明示的なものにせよ──として、控えめに数えあげても『時間を与える・』、『マルクスの亡霊たち』、『友愛のポリティックス』、『アポリア』、『死を与える』、『信と知』、『境域』、『留まれ、アテネ』に対するものがある。また、直後にあたる時期にデリダ本人が『死刑I』の内容を振り返っている対談本(『来たるべき世界のために』)も参照できる。なお、後期デリダの重要著作と目される『精神について』、『法の力』、『アデュー』、『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』、『ならず者たち』、『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』などはこの一覧に含まれないが、これらを読まなくてよい理由があるわけではない。要するに、読者は作者の旺盛な仕事ぶりに飲みこまれ、途方に暮れてしまいかねない……。

本書は『死刑I』の純然たる解説書ではないし、ましてやデリダ思想の概説書ではない。しかし、本書の各論考をお読みいただくことで、『死刑I』にも見られるデリダの思想ならではのさまざまな困難が多少なりとも払拭され──あるいは少なくともそれらの困難がはっきりと標定され──、死刑存廃論の脱構築に真っ正面から取り組むことができるようになるものと信ずる。

というわけで、この二つの大きな困難を前にしながら、本書では「デリダと死刑を考える」ことになる。これは、「デリダを、そして死刑を考える」という意味でもあるし、「死刑を、デリダといっしょに考える」という意味でもある。仮に英語にするならば「Thinking Death Penalty with Derrida」とでもなるが、「with」は「……を用いて」という意味にもなる。デリダについて考えながら、デリダを伴走者としつつ、デリダを用い、あらためて死刑制度を考えよう、というわけである。

そのような試みがこれまでになかったわけではない。以下、私が確認しているかぎりで日本語で参照できるもののすべてを先行文献として列挙しておく(以下には、デリダの死刑論を直接に論じているわけではないが部分的にであれ明らかに参照している文献も含まれている。また、主として『死刑I』が論じられている文献も含まれている)。

高桑和巳「今日のジャック・デリダ 死刑廃止論の脱構築」、『未来』第四一九号(未來社、二〇〇一年八月)八─一三頁。
松葉祥一「死刑・主権・赦し」、『現代思想』第三十二巻、第三号(青土社、二〇〇四年三月)一九五─二〇五頁。
守中高明「死刑を問う」、『法』(岩波書店、二〇〇四年)七五─九七頁。
郷原佳以「デリダにおける死刑の問題」、『現代思想』第三十六巻、第十三号(青土社、二〇〇八年十月)一六二─一七九頁。
高橋哲哉「生きる権利は誰も否定できない 死刑を考える」、『詩人会議』第五十二巻、第二号(詩人会議、二〇一四年二月)七八─九二頁。
ジェフリー・ベニントン「エクス・レクス ジャック・デリダの死刑論セミネール」清水一浩訳、『現代思想』第四十三巻、第二号(青土社、二〇一五年二月[臨時増刊])一五四─一七二頁。

本書の刊行によって、これらの論考が意味を失うわけではない。とはいえ、本書がデリダによる死刑存廃論の脱構築を『死刑I』の刊行後にはじめて十全な規模で検討する機会を提供するだろうことはたしかである。

最後に、本書の執筆者についてそれぞれ、ごく簡潔に紹介しておく。

鵜飼哲氏(一橋大学大学院言語社会研究科特任教授)の専門は二十世紀フランス文学・思想(とくにジュネとデリダ)である。著書が、またデリダやジュネの訳書が多数ある。また、死刑に関する論考に以下がある。「償いについて」、『償いのアルケオロジー』(河出書房新社、一九九七年)七─四四頁。「復讐の暴力、和解の暴力」、『法社会学』第五十四巻(日本法社会学会、二〇〇一年)一三─二六頁。「独裁時代のスペインと現代日本 政治犯の処刑から見えて来るもの」、京都にんじんの会編『銀幕のなかの死刑』(インパクト出版会、二〇一三年)三八─五八頁。「解説 〈心〉をさらす言葉」、辺見庸『愛と痛み 死刑をめぐって』(河出書房新社[河出文庫]、二〇一六年)一四八─一五八頁。

江島泰子氏(日本大学法学部教授)の専門は十九世紀フランス文学である。とくに、文学とキリスト教の関係に造詣が深い。著書に以下がある。『世紀末のキリスト』(国書刊行会、二〇〇二年)。『「神」の人 19世紀フランス文学における司祭像』(国書刊行会、二〇一五年)。また、死刑に関して以下の論考がある。「ロベール・バダンテールとヴィクトル・ユゴーの死刑観」、『日本大学法学部創設120周年記念論文集』第三巻(総合・外国語科目編)(日本大学法学部、二〇〇九年)一〇五─一二四頁。「ユゴーからバダンテールへ」、『桜文論叢』第九十一巻(日本大学法学部法学研究所、二〇一六年)二二七─二五五頁。

梅田孝太氏(上智大学文学部ほか非常勤講師)の専門は十九世紀ドイツ哲学である。とくにショーペンハウアーとニーチェを研究対象としている。最近の論考を挙げれば以下のとおりである。「過去と如何に向き合うか」、『哲学論集』第四十一巻(上智大学哲学会、二〇一二年)九七─一一二頁。「十九世紀末の形而上学批判と新たな価値理想の探究」、『哲学論集』第四十四巻(上智大学哲学会、二〇一五年)七─二〇頁。「ショーペンハウアーの良心論」、『ショーペンハウアー研究』第二十一巻(日本ショーペンハウアー協会、二〇一六年)九九─一二三頁。「ニーチェによる「良心の疚しさ」の再評価」、『ショーペンハウアー研究』別巻三(日本ショーペンハウアー協会、二〇一六年)二四─四三頁。

増田一夫氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)の専門は哲学と地域文化研究(とくにフランス)である。共著書が、またデリダ『マルクスの亡霊たち』(藤原書房、二〇〇七年)をはじめとする訳書が多数ある。デリダに関しては多数の論考がある。いくつかを挙げれば以下のとおりである。「覗き窓の余白に」、『現代思想』第十六巻、第六号(青土社、一九八八年五月)二〇二─二一九頁。「異境から ジャック・デリダに捧ぐ」、『現代思想』第三十二巻、第十五号(青土社、二〇〇四年十二月)一三〇─一三七頁。「固有名 ジャック・デリダ」、『思想』第九六九号(岩波書店、二〇〇五年一月)三七─四八頁。「デリダ 初めに 存在論的差異と存在者的隠喩」、『現代思想』第四十三巻、第二号(青土社、二〇一五年二月)一〇一─一一五頁。

郷原佳以氏(東京大学大学院総合文化研究科准教授)の専門は二十世紀フランス文学・思想(とくにブランショとデリダ)である。著書に以下がある。『文学のミニマル・イメージ』(左右社、二〇一一年)。デリダほか『ヴェール』(みすず書房、二〇一四年)など翻訳も多い。デリダに関する論考も多数ある。また、死刑に関する論考に以下がある。「死刑存廃議論の沸騰のなかで 一九七〇─八〇年代フランス」、『現代思想』第三十二巻、第三号(青土社、二〇〇四年三月)二一四─二二一頁。「「殺して終わり」の欺瞞性 「死刑廃止をめぐるヨーロッパの経験」シンポジウムに参加して」、『未来』第四八三号(未來社、二〇〇六年十二月)一〇─一三頁。「デリダにおける死刑の問題」(前掲)。

石塚伸一氏(龍谷大学法学部教授)の専門は刑事法学である。多数の編著書があり、また死刑に関する論考も枚挙に暇がない。いくつか挙げれば以下のとおりである。「終身刑導入と刑罰政策の変容」、『現代思想』第三十二巻、第三号(青土社、二〇〇四年三月)一七〇─一七九頁。「法務大臣の職責 死刑執行を命じることは、法務大臣の職責か?」、『龍谷法学』第四十五巻、第二号(龍谷大学法学会、二〇一二年十月)三七七─三九四頁。「日本における死刑をめぐる現在の状況と議論」、『龍谷法学』第四十七巻、第四号(龍谷大学法学会、二〇一五年三月)七七二─七九二頁。「18歳の君に あなたは、死刑を言い渡しますか?」、『法学セミナー』第六十一巻、第一号(日本評論社、二〇一六年一月)一二─二一頁。

この六名の研究者は、(個別の論点について意見のまったき統一が前提されているわけではないが)大きく言えば廃止論に等しく与している。存廃論のデリダ流脱構築におおむね賛意を示しているという点も全員に共通している。通読すれば、読者は『死刑I』の全体に対する一つのまとまった批評的視座が出現するところに立ち会うことになるだろう。

だが、細かくお読みいただければ、執筆者陣の論旨や主張、立場に少しずつズレがあるということもおわかりになるはずである。専門を異にしている以上、いや、そもそも異なる人間である以上、視点や立場はそれぞれに異なっていて当然である。

編者としてはむしろ、『死刑I』を批判的に読解するというこの機会に、これほど多様な分野の、多様な主張の研究者たちに参加していただけたことに感謝するとともに、不均質性をあらかじめはらみこんだしかたでこの企画を立てられたことを奇蹟的とも思っている。

執筆者陣が生み出していく微細な齟齬をそのつど感じ取るということ、つまりは微妙な居心地の悪さのなかにとどまることこそがむしろ重要である。正直に言って、たとえば功利主義者からすれば、あるいはまた実際に活動している死刑廃止論者からすれば──もちろん両者は同じではまったくないが──、デリダの議論には相当のもどかしさがあるだろう。逆に、デリダの思想に親しんできた人たちであれば、死刑というテーマだけを中心的に論ずることに多少なりとも議論の単純化を見て取ったり、時事にあまりに接近した議論立てに興醒めしたりするという局面があるかもしれない。

「デリダと死刑を考える」ことによって読者に提供されるのは、その両者の居心地の悪さを無理に解消してしまうことなくデリダを、そして死刑を注視していく場であると編者は信ずる。何かがもう一度──いや、何度でも──再開される場があるとすれば、それはこのようなぎくしゃくした場を措いて他にない。

[書き手] 高桑和巳(慶應義塾大学理工学部准教授/フランス・イタリア現代思想)
デリダと死刑を考える / 高桑 和巳,鵜飼 哲,江島 泰子,梅田 孝太,増田 一夫,郷原 佳以,石塚 伸一
デリダと死刑を考える
  • 著者:高桑 和巳,鵜飼 哲,江島 泰子,梅田 孝太,増田 一夫,郷原 佳以,石塚 伸一
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(270ページ)
  • 発売日:2018-11-27
  • ISBN-10:4560096716
  • ISBN-13:978-4560096710
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 デリダで/とともに考えるのは、ソクラテスからオウム真理教まで!デリダの脱構築を手がかりに、政治と宗教と権力の力学をあぶりだし、死刑を考えるためのハンドブック。編者の緒言をはじめ、六人の執筆者による書き下ろし。
 本書のタイトルは、〈仮に英語にするならば「Thinking Death Penalty with Derrida」とでもなるが、「with」は「……を用いて」という意味にもなる。デリダについて考えながら、デリダを伴走者としつつ、デリダを用い、あらためて死刑制度を考えよう、というわけである〉(「はじめに」より)。
 収録論考は「ギロチンの黄昏──デリダ死刑論におけるジュネとカミュ」(鵜飼哲)、「ヴィクトール・ユゴーの死刑廃止論、そしてバダンテール──デリダと考える」(江島泰子)、「デリダの死刑論とニーチェ──有限性についての考察」(梅田孝太)、「定言命法の裏帳簿──カントの死刑論を読むデリダ」(増田一夫)、「ダイモーンを黙らせないために──デリダにおける「アリバイなき」死刑論の探求」(郷原佳以)、「デリダと死刑廃止運動──教祖の処刑の残虐性と異常性」(石塚伸一)。

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