書評

『同性愛と生存の美学』(哲学書房)

  • 2018/12/05
同性愛と生存の美学 / ミシェル・フーコー
同性愛と生存の美学
  • 著者:ミシェル・フーコー
  • 翻訳:増田 一夫
  • 出版社:哲学書房
  • 装丁:単行本(197ページ)
  • ISBN:4886790127
内容紹介:
本書には、生前最後のものを含め、1981年から84年にかけて、いずれも直接間接に『性の歴史』をめぐって行われたフーコーのインタヴューが収められている。
ふつう同性愛についての、わたしたちのあいだの論議の中心は、ひと口に、ひとは何故、どんなふうに、いつ同性愛者になるのかという段階にあるといってよい。フーコーがこの本のインタヴューの対話を通じてやっている同性愛の論議では、この段階は、すでに自明の前提として超えられてしまっている。あるいはことさらそんな論議を掘り起しても仕方がないほど同性愛が欧米の社会のなかで充分に共同性の場所を占めてしまっていることが前提になっている。フーコーの対話の核心は、同性愛によって人間と人間のあいだにどんな新しい関係がひらかれるか、多様な社会の関係のなかで、同性愛は新しく何をつけ加えられるか、それはどんな寄与と変革を社会にもたらし得ることになるのかということだといっていい。

ところでインタヴュアーの方は、そこまでいっていない。いくらかはわたしたちのあいだの問題意識のニュアンスを引きずっている。インタヴュアーたちは、フーコーの緻密な理路にしだいに圧倒されながらも、あなたは同性愛者ではないのか、そうならはっきりと同性愛者という主体的な場所に立って発言すべきだというモチーフをどこかに匿していて、それがフーコーへの問いと肉迫のなかにところどころちらちら露出したり、またかくれたりする。フーコーもそれを敏感に感じるので、繰返し「自分の性の真理を即自的に発見するのが問題なのではなく、むしろこれから自分の性現象を、関係の多数性に達するために用いることなの」だと説いている。もっと積極的にいえば「われわれは懸命に同性愛者になろうとすべきであって、自分は同性愛の人間であると執拗に見極めようとすることではないのです。同性愛という問題の数々の展開が向かうのは、友情という問題なのです」というフーコーの同性愛についての理念の核心が展開されている。

このフーコーとインタヴュアーとの寄せあい、ニュアンスの違いとずれは、「同性愛」をいわば〈秘された罪〉のようにみなして告解の要請を仄めかす者たちと、それは〈秘された罪〉でもなければ〈露わにされるべき禁忌〉でもなく、「友情」という少年時代にはじまって、「共に生き、時間を、食事を、寝室を、余暇を、悲しみを、知を、秘密を分かち合うことは可能か」という生涯の課題につながる主題なのだと説得する者との白熱したシーソー・ゲームを作りだし、せめぎあう対話を展開させている。読むわたしたちは天馬空を行く論議を聴いているように、あれよあれよという感じで一から十まで啓蒙されながら読みはじめる。しかし次第にフーコーが同性愛ということで何を言おうとしているかが判ってくると、内心で舌を巻くおもいがして、フーコーの理路のなかに惹き込まれてゆく。インタヴュアーたちもまたわたしたちと同じで、次第にフーコーの説得力に服してシーソー・ゲームは終ってしまい、終ってから後にほんとうのインタヴューが始まる。

なぜ同性愛が社会から病的なものとみられたり、不快がられたり、いちばん低く見積っても当惑がられたりするのかというところからフーコーははじめる。フーコーに言わせれば、同性愛を通りで出会い、眼差しで魅惑し合い、お互いの尻に手をやり、十五分後には性を享受しあっているというストレートな快楽のかたちにかぎってしまうのは譲歩した言い方なのだ。同性愛は、常識に合致しない性行為を想像させるから人々を不安がらせるのではない。個々べつべつに切り離された人間が愛しあいはじめるというかつて人間の歴史が体験したことがない新しい人間関係が作られることが不安がらせているのだ。同性愛によって、制度をつくっている異性愛の様式や家族とはぶっ違いに横断する結合の線ができると、制度の支柱になっている法とか規則とか習慣のあるべきところに愛をもちこんでしまう。従って制度は、同性愛に不安を感じるのだとフーコーは指摘する。フーコーが描いている同性愛のイメージははっきりしているとおもえる。異性愛が対(ペア)をつくり家族制度を構築し、子供を産み、親族をひろげ、というように、世代と地域を超えて網の目をつくってゆくとすれば、同性愛は個々のばらばらの個人が愛の媒介だけで友情や知己の絆をつくって、異性愛の制度と直交するような新たな人間関係の網の目を、微細格子をつくりながら拡大してゆく。もしもっと極端なばあいを想定すれば、禁欲的な同性愛ともいうべき克己を通じて、現在ではあり得ないような人間存在と人間関係の様式を発明することにつながってゆく。フーコーの言葉をもってくればこういう「同性愛的禁欲の中を、われわれは進むべきなのです」ということになる。フーコーの同性愛のイメージはここまでくると幼少年期に起源をもつ友情のイメージに近づいていって、このイメージに終末から新しい姿で同調し、被覆してゆくものを指しているようにおもわれてくる。これが実現されれば、社会階級、職業の違い、文化的な水準の違い、親と子ほどもある年齢の違いなどを越えて、それを横断し連結できるような生の多様な存在様式が出現できるかもしれない。それはすくなくとも現在までは制度化されていない新しい社会形式の発端になりうる。そう主張されている。

フーコーはここから歴史的な眼を行使してみせる。女性は女性どうしで身体に触れたり、抱擁しあったり、腰に手をまわしたりすることは、過去にもべつに何ともおもわれなかった。だが男どうしはもっときびしくそういうことを禁じられてきた。男どうしの共棲生活が黙認されたり、もっと極端に強制されたりしたのは、十九世紀になって、戦争が行われた間だけだった。戦場の地獄の殺戮のなかで、何が男たちをもちこたえさせたかといえば、さまざまな要因のなかのひとつに、戦友相互のあいだの感情的な親和のつながりがあったといえる。そういう論法は嫌いだと断わりながらもフーコーは、男たちが何日も幾月も、ぬかるみや屍体のあいだや糞のなかを這って歩いたり、死ぬほど飢え、朝が来ると酔い痴れて突撃していった条件のひとつは、男どうしの強い感情のきずながあったことが、挙げられると言っている。この本のフーコーの言説のなかには、たびたびあらわれるのだが、フーコーは同性愛という概念のなかで占める男どうしの性行為の大きさを、ほとんど極小において、むしろまったく信頼、親和、友情のような概念に限りなく近いものとして考えようとしている。フーコーはさらにギリシャ人のあいだで同性愛が黙認されていたというのは、意味がない言い方だと述べている。このばあい重要なのは、ギリシャやローマで、自由人の階級に属して将来、元老院議員や、政治家や演説家として社会の支配権力の座につくようになる少年が、成人男性と受け身の同性愛にはいることは、考えにくいことで、そういう少年がやがて政治的役職につくことを禁止する法律は、そういう意味をもっていた。だが成人が少年に求愛することは何も咎められる問題ではなかった。とくに少年がドレイ階級のものだったら自然だとされていた。そこで哲学的な言説は、真正の恋愛関係とは何かに向けられた。それは少年とのあいだに性行為の関係を排除して、父親と子供のような感情的、教育的な親和を結ぶべきだとすることで、自由人の階級の成人男性と自由人の階級の少年とのあいだの恋愛を、見掛け上は否定しながら、実際的には受け入れ可能にすることを暗黙に目ざすものだった。フーコーはこの問題について『性の歴史』II(『快楽の活用』新潮社刊)に展開されている蘊蓄を、簡明に要約して語っている。

フーコーの語るところは、次第に同性愛の概念の核心のところで(すくなくともそのひとつに)肉迫していく。

質問がアメリカのゲイ社会やゲイ共同体の組織や主張の当否に触れてゆくとき、フーコーはそれが単性社会や単性共同体として閉じることにつながるとすれば、不当なものにおもえるという見解を披露している。フーコーの考え方の根拠は、ゲイ社会やゲイ共同体が存立することを認めるべきだと主張するかぎり、権利の主張なのだから当座肯定されるべきだが、それは同時に檻をつくってじぶんたちがそこに閉じ込もってしまうことを意味している。フーコーの考え方はまるでそれと違うようにみうけられる。フーコーによれば、同性愛とは「あなたは同性愛者ですか」と問われて、そうですとか違いますとか選択的な断言をしなければならないようなものではなく、時に応じてどう行使すべきかを決めるような非選択的な何かを意味している。性を選択する可能性がいつでも現存しているような次元に身を置き、その選択が生の全体に効果をもつような次元にあることを指している。いいかえれば人は(男性は)「懸命にゲイにならなければならない」というべき何かなのだ、とフーコーはいう。性の選択が生の様式をつくることだし、その選択は、個々の人間が親和する微粒子となって、生全体に拡散することによって、異性愛が作っている性の制度、家族、対関係とは違った関係を社会のなかに生成することを意味するのだ、とフーコーは力説している。

では同性愛運動に政治目標はあるのか、あるとすれば何なのか。この質問にたいする答えはいままで述べてきたようなフーコーの同性愛の理念からすぐに、「性の選択の自由」という標語に要約されてでてくることがわかる。「性の選択の自由」という目標からフーコーが予測している「運動」性とはなにか、誰が誰に対立し、たたかうのか。対立しあう主体とは誰なのか。フーコーの答えは、個々のばらばらにきりはなされた親和する微粒子たる人間(男性)が、おなじ親和する微粒子にたいして、つまりすべての人がすべての人にたいして対立し、またすべての人の内部でべつのすべての人にたいして対立し、たたかうことだという答えになってはね返ってくる。またその対立し、たたかうものが万人のなかで消滅することだとつけ加えてもおなじだ。

フロイトはすべての神経症の背後に、性現象を、もっといえば性関係の障害があることを発見した。そしてすべての性関係の障害は、胎乳児期における母親との接触と分離の「不全」に第一次的な要因があるものとかんがえられた。同性愛も当然その「不全」に第一次的な要因をもっている。だがフーコーにいわせればフロイトの独創性は神経症の性的病因論にではなく、「夢の解釈」を作ったことにある。同性愛運動がたしかな社会的な場面と権利と習慣の自然さを獲得して、「不全」という概念を変えてしまうか、消滅させてしまったならどういうことになるのか。フーコーは、それは同性愛の問題とは違う、違わないとしても極く一部にしかすぎないとかんがえている。新たな関係、新たな親和、新たな文化現象を社会倫理に導入できるかどうかが問題なのだと。

質問者は「夢の解釈」で、フロイトが性についてまったく新しい理路をこしらえあげたとおもわないかと問うたのにたいして、フーコーはそれは確かにそうなのだが、自惚れて言わしてもらえば、私(フーコー)がやったことは、まったく別のことだと答えている。じぶんは性現象という装置から出発して、人間のそれまであった性についての倫理がどれだけ変革された文化現象を生んだか、性の振舞い方がどれだけ真理に近づけるかを明らかにしようとしたと述べる。

だがフーコーがいうように同性愛が、例外的な少数だったからフロイトはそれを異常や「不全」のひとつとみなしたのか、それとも現在のアメリカや西欧の同性愛運動が、いうように少数ではあっても部分的な社会や共同体が形成できるほど量的に拡大し、なお拡大する勢いがあれば、異常や「不全」とみなされなくなると、かんがえていたかどうか疑わしい。同性愛という主題は当事者にとって切実で深刻な主題であるほどには、当事者でないものには切実でも深刻でもなく、性の自然さにゆだねたまま流し過ぎてしまう面がある。ここからフロイトの古典的な主題、ひとはなぜ神経症にかかるか、そしてその背景に性現象の不全や異常がなぜ存在するか、という主題が、蘇ってくるとおもえる。この古典的な主題の蘇生を告知するものとして、欧米型の先進社会での現在のエイズ現象があるのではないか。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN:4122025990

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同性愛と生存の美学 / ミシェル・フーコー
同性愛と生存の美学
  • 著者:ミシェル・フーコー
  • 翻訳:増田 一夫
  • 出版社:哲学書房
  • 装丁:単行本(197ページ)
  • ISBN:4886790127
内容紹介:
本書には、生前最後のものを含め、1981年から84年にかけて、いずれも直接間接に『性の歴史』をめぐって行われたフーコーのインタヴューが収められている。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1987年7月

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