前書き

『「レ・ミゼラブル」百六景』(文藝春秋)

  • 2018/12/18
「レ・ミゼラブル」百六景  / 鹿島 茂
「レ・ミゼラブル」百六景
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(497ページ)
  • 発売日:2012-11-09
  • ISBN:4167590069
内容紹介:
なぜジャン・ヴァルジャンは、パリのその街区に身を隠したのか?里親から虐待を受けるコゼットが、夜店で見ていた人形はどこ製か?19世紀の美麗な木版画230葉を106シーンに分け、骨太なストーリーラインと、微に入り細を穿った解説で、"みじめな人々"の物語をあざやかに甦らす。長大な傑作の全貌がこれ一冊でわかる。

長大な傑作の全貌がこれ一冊で

世の中には、誰でも題名とあらすじぐらいは知っているが実際には誰も読んだことのない《世界の名作》というものが存在している。これらの《名作》は大人たちの親切心から、たいていは抄訳の形で『少年少女世界文学全集』の類いにおさめられているが、こうした抄訳で《名作》を読んだ少年少女が成人してから完訳版でその作品を読み返すことはまずないといっていい。

思うに、こうした読まれざる《名作》は大きく二つの系列に分けることができる。一つは『ドン・キホーテ』『ガリヴァー旅行記』といったきわめて象徴性が高い作品で、いちど概要を知れば、あらためて読み返す必要がないように思えるものである。もう一つは、いわば普遍的な通俗性とでもいえる要素を備えた作品で、何度も映画化やドラマ化されているため、読みもしないのになんとなく読んだ気になってしまうものである。ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』は、幸か不幸か、このどちらの要素も含んでいる。したがって、ほとんど読まれることがない。もしフランス文学に関するアンケートを取ったなら、題名を知っている作品のトップには必ずこの『レ・ミゼラブル』が来るだろうが、読了した作品の項目では順位はかなり下になるはずである。

内幕を暴露するようで気がひけるが、こうした情況はフランス文学の研究を専門にするフランス文学科の学生や教師にとっても基本的には変わらないのではあるまいか。自分の体験から割り出すなら、『レ・ミゼラブル』全巻を原書で読んだことのあるフランス文学研究家は、『大菩薩峠』を読了した国文学研究家よりも少ないのではないかという気がする。

ただ、私自身の『レ・ミゼラブル』の受容体験はいま述べたような定型とは多少異なっている。すなわち、少年時代には漫画に熱中していたため『少年少女世界文学全集』などには触れる機会もなく、当然、抄訳の『レ・ミゼラブル』を読むこともなかった。だから高校生となってあらゆる小説本を乱読しはじめたときには、『レ・ミゼラブル』は逆に未知の書物としての魅力を持っていた。そのため、かなりの興味をもって全訳版を読破したのだが、その割には読後の印象は散漫だったという記憶がある。おそらく、トルストイやバルザックのレアリスムになれた目には、ユゴーの語り口がいささか古めかしく映ったからなのだろう。それに、ひたすらストーリーを追い求める一途な高校生にとって、ユゴーの好む脱線がただ煩わしいものとしか感じられなかったのはいたしかたあるまい。大学の仏文科に進んでからは、一応ひとなみにユゴーに関心はあったので、詩作品に親しむかたわら『レ・ミゼラブル』にも原文でチャレンジしてみたのだが、《ABCの友》のグランテールの長口舌あたりで挫折し、結局読了しないままで終わってしまった。

『レ・ミゼラブル』に対する認識が完全に改まったのは、恥ずかしながら、十年前、パリに一年間滞在してからのことにすぎない。私は、アンリ・マルレという無名の石版画家のパリ風俗情景集『タブロー・ド・パリ』を紹介して以来、オスマンの改造以前のパリの幻影にとりつかれ、パリ滞在中はひたすらオスマンの鶴嘴を免れた街並を求めてカルチエ・ラタンやマレ地区を歩き回っていた。そんなある日、たまたまパサージュ・ヴェルドーといううらぶれたアーケードでユーグ版の挿絵入り『レ・ミゼラブル』を見つけた。一八七九年に出版されたこの版はあとがきで述べるような理由で現在ではかなりの稀覯本となっており、値段もそれほど安いとは言えなかったが、この年(一九八五年)ユゴー死後百年を記念して各種行事を企画していたパリ市にならって、私の勤務する大学でも「ヴィクトル・ユゴーと『レ・ミゼラブル』展」を開催する予定だったので、参考展示品にでもなればと思ってこれを買いもとめた。こう書くと、いかにも気のない買い物をしたように思われるかもしれないが、じつはこれは嘘で、十九世紀前半のパリ風俗に関する図版本の文献リストにはこのユーグ版も挙がっていたから、もしかすると専門の研究に役に立つかもしれないという下心はあった。ただ、ユーグ版は十九世紀もかなり後半になってから出た版なので、同時代の版画にこだわるマニアとしてはいつも二の足を踏んでいたのである。

ところが、家に帰ってページをめくってみて驚いた。驚いたといっても、挿絵がパリ風俗の研究に役立つものだったからというのではない。いくら十九世紀が社会変動の少なかった時代であるとはいえ、物語の設定されている時代よりも三、四十年の後に描かれた挿絵では厳密な意味での史料とはなりえない。驚いたのは、ユゴーのテクストが挿絵と渾然一体になって、それまでには一度も感じたことのない力強い喚起力で十九世紀の前半という時代の雰囲気を蘇らせていたことである。活字では完全に抜け落ちてしまった具体的な時代の手触りが、三百六十葉という類を見ない多数の挿絵からヴィヴィッドに伝わってきたのである。おかげで『レ・ミゼラブル』全巻をあっというまに読了してしまった。

これはまったく新しい体験だった。以前は飛ばし読みをしていた脱線の部分が退屈どころか新鮮な驚きに満ちたものとなったばかりか、『レ・ミゼラブル(惨めな人々)』という題名それ自体の意味が、黒々とした写実的な木口木版のおかげで初めて理解できたように思えた。すなわち、ユゴーは単に貧困によって虐げられた弱者ばかりでなく、貧困が生み出すあらゆる悪を、被害者も加害者もひっくるめた形で描き出すつもりだったのではなかろうかと思ったのである。

ユーグ版の『レ・ミゼラブル』の発見と前後して、長らく絶版になっていたフランスの歴史人口学者ルイ・シュヴァリエの名著『労働階級と危険な階級』(一九五六)が再刊されたが(みすず書房より一九九三年に翻訳が出版された)、この労作はこうした『レ・ミゼラブル』の読みかたが間違っていなかったことを教えてくれた。

シュヴァリエは十九世紀前半に書かれたバルザック、ウージェーヌ・シュー、ユゴーなどの小説に犯罪が大きな位置を占めていることを指摘し、それが必ずしも作家の文学的想像力だけから生み出された純粋な虚構ではなく、当時の急激な都市環境の劣悪化と密接な関係にあることを人口学的な手法を導入することによって見事に証明したが、『レ・ミゼラブル』にあてた一章では、《レ・ミゼラブル》という言葉をはじめは《社会のくず》に近い否定的なニュアンスで用いていたユゴーがこれを次第に《社会の弱者》という意味合いで使うようになった事実を読み取って、そこから逆にユゴーの社会的な危機意識を摘出し、当時のパリの貧困階級の悲惨な現実を照射してみせたのである。

だが、この著作で真に刮目に値したのは『レ・ミゼラブル』のタイトルに関するこうした解釈ではなく、むしろ彼が駆使している独特の方法論である。シュヴァリエの方法論は、彼が全面的に援用している十九世紀の公衆衛生学者パラン=デュシャトレやフレジエのそれとよく似ている。つまり、パラン=デュシャトレらが、社会の吐き出す汚物の中に時代の危機と社会再活性化の源を見たように、シュヴァリエも、それまで文学的な剰余物としてまったく顧みられることのなかった小説的細部や脱線の中に歴史のダイナミズムを読み解く鍵を見いだしたのである。

ヌヴェル・クリティック亜流の無味乾燥なテマティック批評に飽きた者の目にはこのシュヴァリエの方法ははなはだ新鮮なものに思えた。確かに、時代を超えて生き残るのは普遍的な価値を多く有する小説だとしても、本来、小説とは夾雑物に満ちたもののはずなのだから、これをすべて剰余物として捨て去ってよいものなのだろうか。いっそ、シュヴァリエにならって夾雑物に徹底的にこだわってみたら案外いままでにはない面白いものが出てくるのではなかろうか。

こうした思いはおのずとユーグ版の『レ・ミゼラブル』を読んだときの新鮮な驚きと結びつき、この版の挿絵でイメージを膨らませながら『レ・ミゼラブル』を一冊の社会史として読み取ってみたいという願望に変わった。ただ、そうは言っても、ユーグ版の『レ・ミゼラブル』の挿絵は三百六十葉もあり、これにすべてコメントをつけるわけにはいかないし、またその力量もない。そこで、この多数の挿絵から、社会史的な情報を比較的多く含んでいると思われる二百数十葉を選んだうえで、これを一種の解読格子にして当時の社会・歴史的な要因をさぐってみようと考えた。とはいえ、『レ・ミゼラブル』はあくまでも完結した文学作品であるから、当然そのストーリー性を無視するわけにはいかない。したがって挿絵はできるかぎり物語の順序に忠実に配列するようにつとめ、また、『レ・ミゼラブル』を読んだことのない読者にもストーリーが追えるように挿絵には筋の要約をそえることにした。さながら挿絵とストーリーが読解をはさんでサンドイッチのような構成を取っている。読解の部分はときとしてストーリーから離れ、社会・歴史的な考察へと「脱線」することもあるかもしれないが、その場合でも『レ・ミゼラブル』の放射する磁界よりも遠くには行っていないはずである。

いずれにしても、これは、正統的な文学研究でもないし、かといって正統的な歴史研究でもない。強いていえば、細部を楽しみながら小説を読むのが好きな者が、文学を通して歴史を把握するというルイ・シュヴァリエ的方法にならって、フランス文学でも最も細部の豊かな小説である『レ・ミゼラブル』を読んだ報告書、こう考えていただければ幸いである。
「レ・ミゼラブル」百六景  / 鹿島 茂
「レ・ミゼラブル」百六景
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(497ページ)
  • 発売日:2012-11-09
  • ISBN:4167590069
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なぜジャン・ヴァルジャンは、パリのその街区に身を隠したのか?里親から虐待を受けるコゼットが、夜店で見ていた人形はどこ製か?19世紀の美麗な木版画230葉を106シーンに分け、骨太なストーリーラインと、微に入り細を穿った解説で、"みじめな人々"の物語をあざやかに甦らす。長大な傑作の全貌がこれ一冊でわかる。

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