書評

『抽象の力』(亜紀書房)

  • 2019/02/14
抽象の力 / 岡崎 乾二郎
抽象の力
  • 著者:岡崎 乾二郎
  • 出版社:亜紀書房
  • 装丁:単行本(440ページ)
  • 発売日:2018-11-23
  • ISBN-10:4750515531
  • ISBN-13:978-4750515533
内容紹介:
20世紀美術を動かした真の芸術家たちは誰か―。近代芸術はいかに展開したか、その根幹から把握する、美術史的傑作。

深層構造に想定し美術史を読み直す

本書の冒頭で著者は、印象派から後期印象派、キュビスムに至る流れにおいて「眼(め)に実際飛び込んでくる情報と見ていると思っていた像のズレ」という自覚が共有されていた、と喝破する。感覚情報の累積は決して対象のリアルな像をもたらさないという前提のもと、「人が感覚を超えて把握し認識している対象のリアルかつ確実な姿こそを、絵画として論理的に構築する」ことを目指したのがキュビスムであると。注意しよう。著者の主張は、人間がイメージを超えた現実を認識することはできない、という不可知論ではなく、視覚を超えた情報を「直(じか)に捉えている」というものだ。

ここで夏目漱石の『文学論』が引用される。漱石は文学の構造を「f+F」の図式で分析した。日々感受される無数の感覚印象である「f」の累積に、概念像としての「F」が焦点を与えることで一つの対象として統合する。fの集積が新たなFを形成し、Fはまたfへと解体されもする。文学とはこの解体と構築のプロセスを指すと漱石は述べたが、この指摘は美術史にも該当する。それは画家が主人公である小説『草枕』に示された洞察において、キュビスムや抽象芸術が生ずる理論的必然性が予告されていたことからもうかがえる。この実験小説で描かれるのは、統合されない感覚要素fを束ねるための「情」の発明なのだから。

著者の構想はさらに広げられ、熊谷守一の光学、恩地孝四郎(日本で最初の抽象作品を描いた)の感情、フレーベルの幼児教育へと連なっていく。とりわけフレーベルのメソッドは、事物と身体の協働を通じて諸々(もろもろ)の感覚要素が大きな全体的秩序に連なっていくプロセスの把握という意味で、抽象芸術に影響を与えたとされる。

ここで再び漱石が引用される。著者によれば複数の記述が絡み合う小説『明暗』は確率論的な小説であり、そこでは人間の自由意志すらも「複数の構造(因果関係)が、入れ子状に影響し合うことで作り出される効果」とされる。自己の心身に外部との通路を想定する確率論的な思考は、熊谷守一ら若い芸術家にも影響を与えた。中でも岸田劉生の絵画は、「無形のもの」すなわち視覚対象として定位できないものの現出を目指すことで、キュビスム以降の問題群に沿っていた、と著者は指摘する。岸田の絵が時に不気味に見えるのは、見慣れたものの姿が実は固定できない偶然的なものでしかない必然が現前するからなのだ。

その後、著者の記述は新感覚派からダダイスム、長谷川三郎の手法や戦時下での構成主義的なデザインへと向かう。戦後においては、アンフォルメル・スタイルの流行とアメリカにおける抽象表現主義の興隆が批判的に記述される。抽象表現主義を先導したグリンバーグ以上に著者が重視するのは、ウクライナ出身でアメリカに亡命した画家にして理論家、ジョン・D・グラハムである。グラハムは芸術を、諸感覚から普遍的な秩序=形式を把握する抽象作用という認識プロセスにかかわるための装置であるとした。こうしたグラハムの理論は、その後に続くポップアートやコンセプチュアルアートへと受け継がれていった。

美術史の深層構造に、こうした「抽象に至るプロセス」を想定することは、ほとんど美術史を再定義・再記述するかのようなインパクトをもたらす。少なくとも評者は、絵画鑑賞に際してこの「抽象の力」がどのレベルで作動しているかを、常に考えるようになった。

以上の概念的な布置をふまえて、本書出版前から高く評価されていた熊谷守一論の章を読んでみよう。一八八〇年生まれの守一は、その生涯において一度も海外に出ることなく、同時代のクレーやピカソ、マティスらに比肩しうるような傑作を残している。特に六〇歳以降の守一の仕事は、世界的に見ても先端的な絵画として展開し続けた。なぜそんなことが可能になったのか。

ミルトン・エイヴリーやヴァネッサ・ベル、マティスらの絵画との類似性というか共鳴性がいくつも例示される。そこにあるのは単なる影響や模倣などではない。「絵画の歴史的展開として同じ課題を共有」していたからこその共鳴であり、そこでは絵画を何かの再現ではなく、現実的な力を持つ具体物たらしめるような「抽象の力」が働いたのだ。とりわけ守一の傑作「ヤキバノカエリ」からマティスの宗教画を想起する過程において、「観客が見ているという行為を意識させる」という共通の機能を見出(みいだ)していく過程は本章の白眉(はくび)である。

著者は守一の仕事に「ある場所で独自に展開してきた仕事がそれとは異なる場所で発生してきた仕事とシンクロ=同期しうるという可能性」を見る。その共時性は個別の表現というよりも、「ものの見方」「考え方」によって構造的に生ずるだろう。芸術が場所に限定されない可能性を持ちうることが著者である岡崎を勇気づけたとすれば、その勇気は私たちにも共有可能であるはずだ。なぜなら私たちそれぞれの「ものの見方」もまた、多様な「抽象の力」の作用のもとにあるのだから。
抽象の力 / 岡崎 乾二郎
抽象の力
  • 著者:岡崎 乾二郎
  • 出版社:亜紀書房
  • 装丁:単行本(440ページ)
  • 発売日:2018-11-23
  • ISBN-10:4750515531
  • ISBN-13:978-4750515533
内容紹介:
20世紀美術を動かした真の芸術家たちは誰か―。近代芸術はいかに展開したか、その根幹から把握する、美術史的傑作。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2019年2月3日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
斎藤 環の書評/解説/選評
ページトップへ