書評
『星を継ぐもの』(東京創元社)
空想科学本格推理小説
今月は、ちょっと毛色の変わった謎解き小説を取りあげてみたい。いや、実をいうと、ちょっとどころか大いに変わった代物で、サイエンス・フィクションである。今年の五月に創元推理文庫で刊行された、ジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』(一九七七)という長篇。
なんだSFか、と顔をしかめられると困るのだけれど、これ、本格ミステリの快作です。”ミステリとして読んでも楽しめる作品”という程度のものではなく、本格推理小説そのものなのである。SFファンは異論があるだろうが、わたしは、そういいきっていいと考えている。
内容を云々するまえに、わたし自身のSF体験について簡単に述べておこう。SFを知りもしないくせにきいた風なことをぬかすな、などといわれてはたまらないからだ。
中学から高校にかけての一時期、わたしは熱烈なSFファンだったことがある。
自慢じゃないが、昭和三十八年から四十年までの三年間に《SFマガジン》に掲載された小説、エッセイ、コラムは、ことごとく読んでいる。毎月、発売と同時に本屋さんへ買いに行き、隅から隅まで読んだ。エドモンド・ハミルトンの『時果つるところ』、アイザック・アシモフの『夜来る』、ロパート・A・ハインラインの『大宇宙』、マレイ・ラインスター『最初の接触』、ルイス・バジェット『次元ロッカー』、といった作品に夢中になった。
伊藤典夫氏の『マガジン捜査線』や『SFスキャナー』にしびれ、まねをして、未訳のSFペーパーパックや《アナログ》《ファンタスティック》といった雑誌を買い集めたこともある。ハヤカワSFシリーズも百冊以上持っているし、現在では古書店で眼ン玉が飛び出るほどの値段がついている《SFマガジン》創刊号だって、ちゃんと所蔵いたしておる。かの有名なSF大会TOKONに、一人でのこのこ出かけたことすらある。
つまりは、ファンだったということだろう。それがどうしてそうでなくなってしまったのかは、よくわからない。J・G・バラードやブライアン・オールディスが台頭してきて、ニュー・ウェーヴだ、スペキュレイティヴ・フィクションだ、イナー・スペースだとやりだしたあたりから、読書欲を喪失してしまったようだ。
それでもまあ、たまに、わたしの好みにあいそうな新刊SFを見かけると、読んでやろうという気分にはなる。この『星を継ぐもの』は、そういう気分を起こさせてくれる作品だった。なんとはなしに買ったのだが、読みはじめてびっくりしてしまったのである。
舞台は二十一世紀の未来。月面調査隊が、洞窟の中から真紅の宇宙服をまとった死体を発見する。体形も骨格も現代人に瓜二つ、どう見ても地球人である。が、調査の結果は驚くべきものだった。死体は五万年以上も前のものであることが判明したのだ。
進化論を根底からくつがえすほどのこの事実から、多くの疑問が生まれてくる。人類は、五万年前に、現在と同等の科学文明を誇っていたのではないか? しかし、だとすれば、地球上にその形跡がまるで発見されないのはなぜなのか?
それとも、この死体は別の世界から来た生物なのか? これは考えにくい。条件の異なる二つの惑星で進化した生物が、まったく同じ形態をとることはありえないからだ。
が、やがて、死体の故郷が地球ではないことを示す確固とした証拠が出現、次のような推論が導きだされる。今から五万年以上も前、火星と木星の間に、一つの惑星が存在した。ミネルヴァと名づけられたこの星には、宇宙旅行をし、月に基地を作るほどの科学力を持った人類が住んでいた。しかし、核戦争のはてに彼らは滅亡し、ミネルヴァは爆発して、現在、小惑星帯と呼ばれる無数の星くずと化したのである、というものだ。
ところが、そこでまたしても大矛盾が生まれてくる。死体と共に発見された日記めいたものを解読したところ、どう解釈しても、ミネルヴァは地球である、という結論になってしまうのだ。この事実は何を意味するのか?ミネルヴァ人は地球人の祖先なのだろうか?それならば、月に基地を作るほどの科学力を誇っていた彼らの文明の痕跡が、なぜ地球上にまったく残っていないのか?
謎また謎、である。だが、すごいのはこのあとで、これだけ錯綜した謎が、まことに単純明解に、論理的に解き明かされ、しかもすばらしい意外性に満ちている。不可解な謎の提出、中段のサスペンス、論理による謎解きと結末の意外性。こういう種類の小説を、ぼくらは本格推理小説と呼んでいるのではあるまいか。
細かく検討してみれば、それはいよいよはっきりする。“あまりにも他愛のないことであるために、誰もが自分で犯していることに気付かぬ誤(あやま)り”を発見して謎を解く主人公の原子物理学者は、名探偵である。彼と対決したり協調したりする生物学者は、ワトスン役である。木星への探査飛行は、アリバイ捜査。ミネルヴァ語の解読は、むろん暗号解読。そして、この巨大な謎の背後にあるのは、本格、ミステリにおいてもっとも有名な、あるトリックなのだ。ただ、それが途方もないスケールで使われているので、一見、そうとは気づかぬだけのことである。
むろん、この小説が、優れたSFであることはまちがいない。最後の一ページが、鮮やかにそれを示している。解説で鏡明氏が”A・C・クラークの『太陽系最後の日』の読後感に似ている”と述べているが、まったく同感で、壮大な時間的広がりを見せて終わるこのラスト、感動的である。
しかし、優れたSFであることと、優れた本格ミステリであることとは、少しも矛盾しない。この二つは、まるで尺度の異なるジャンルなのだから。
『星を継ぐもの』を読み終えたあとに、わたしがまず感じたのは、こういう手法で本格ミステリを開拓してゆけば、とても斬新な作品が生まれてくるのではないか、ということだ。SFやファンタジイの確固としたルールにのっとって、論理的な謎解き小説を書くのである。過去にも、その種の作品はあった。アシモフの『鋼鉄都市』や『はだかの太陽』、ランドル・ギャレットの『魔術師が多すぎる』。短篇でも、よく見かける。しかし、単発的なものが多く、それを作風として書き続けた作家はいない。
空想科学本格推理作家。そう呼ぶことのできる異色の才能が、そろそろ出現してもいいような気がする。
〈付記〉
ジェイムズ・P・ホーガンは、その後、『ガニメデの優しい巨人』(一九七八)『創世記機械』(一九七八)『未来の二つの顔』(一九七九)『未来からのホットライン』(一九八〇)『断絶への航海』(一九八二)『造物主の掟』(一九八三)などのハードSF話題作を次々に発表、今やSF界の一方の旗頭といってもいいほどの人気を誇っている。
前記のうち、わたしが読んだのは、『星を継ぐもの』の続篇ともいうべき『ガニメデの優しい巨人』とコンピュータが進化する『未来の二つの顔』だけだが、ともに予想外におもしろかった。空想論理の構築というか、科学的庇理屈のこねまわしというか、どう見ても大ボラとしか見えない話を、もっともらしく見せかけようとする情熱には頭が下がる。『星を継ぐもの』は、そういう彼の情熱が、謎解きの興味とぴったり合致した傑作である。
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