書評
『球形時間』(新潮社)
他者と関係を結ぶのがかったるい。表層的に友達のふりをしてるのが楽だし、実際平和。若い世代だけじゃないと思う、そんな風に感じてるのは。この小説に登場する人物もそう。それぞれがガラス球の中にいて、自分を壊してまで相手と混じり合おうという意図は、ほとんど感じられないのだ。
たとえば、高校生のカツオ。小説の終わりのほうで、壁から腕が抜けなくなったクラスメートのサヤや壁に埋まってしまった恋人のマックンを幻視するシーンがあるのだが、助けを呼ぼうとしたカツオはふと考えるのだ。こんなヘンなやつらと「いっしょくたにされたり、犯人にされたりするのはごめんだ。とりあえず、他人のふりをしておけばいいだろう」って。この「とりあえず」って感じが、自分と他者をつなぐ現在のリアルな接続詞なんだと思う。
そういったコミュニケーション不全の問題を端緒に、「文明と野蛮」「正常と異常」など、人間関係を分断してしまう対立線の不毛をこの小説は描いている。でも、まるで救いがないわけじゃない。老女イザベラとサヤとの時空を超えた出会いが、その好例だ。昔の日本を馬で旅したイザベラの冒険譚を聞いて、サヤは自分もまた遠くの国に行きたいと願う。そして、気づくのだ。
「もし、外国から来た人が見たら、そこの焼き芋屋も、野蛮に見えるかもしれない。電気がないから石で焼いているのだと思うかも知れない」と。不毛な対立線は、サヤがこの一瞬に獲得した、別の角度から見る視点によって乗り越えられるのだと、作者はさりげなく提示している。これはガラスの球に映し出された像のように歪(ゆが)んだ物語ではあるけれど、そのひずみはたくさんの大切なことを伝えてくれているのだ。
【この書評が収録されている書籍】
たとえば、高校生のカツオ。小説の終わりのほうで、壁から腕が抜けなくなったクラスメートのサヤや壁に埋まってしまった恋人のマックンを幻視するシーンがあるのだが、助けを呼ぼうとしたカツオはふと考えるのだ。こんなヘンなやつらと「いっしょくたにされたり、犯人にされたりするのはごめんだ。とりあえず、他人のふりをしておけばいいだろう」って。この「とりあえず」って感じが、自分と他者をつなぐ現在のリアルな接続詞なんだと思う。
そういったコミュニケーション不全の問題を端緒に、「文明と野蛮」「正常と異常」など、人間関係を分断してしまう対立線の不毛をこの小説は描いている。でも、まるで救いがないわけじゃない。老女イザベラとサヤとの時空を超えた出会いが、その好例だ。昔の日本を馬で旅したイザベラの冒険譚を聞いて、サヤは自分もまた遠くの国に行きたいと願う。そして、気づくのだ。
「もし、外国から来た人が見たら、そこの焼き芋屋も、野蛮に見えるかもしれない。電気がないから石で焼いているのだと思うかも知れない」と。不毛な対立線は、サヤがこの一瞬に獲得した、別の角度から見る視点によって乗り越えられるのだと、作者はさりげなく提示している。これはガラスの球に映し出された像のように歪(ゆが)んだ物語ではあるけれど、そのひずみはたくさんの大切なことを伝えてくれているのだ。
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