書評

『犬婿入り』(講談社)

  • 2021/10/06
犬婿入り / 多和田 葉子
犬婿入り
  • 著者:多和田 葉子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(148ページ)
  • 発売日:1998-10-15
  • ISBN-10:4062639106
  • ISBN-13:978-4062639101
内容紹介:
多摩川べりのありふれた町の学習塾は"キタナラ塾"の愛称で子供たちに人気だ。北村みつこ先生が「犬婿入り」の話をしていたら本当に「犬男」の太郎さんが押しかけてきて奇妙な二人の生活が始まった。都市の中に隠された民話的世界を新しい視点でとらえた芥川賞受賞の表題作と「ペルソナ」の二編を収録。
いろいろな可能性を持って出発した新人作家が、どのようにして自らの才能を開花させてゆくか、現代には、そのような一人の作家の成長を見守る、あるいは助ける条件が備わっているだろうか、というようなことを、多和田葉子の『犬婿入り』を読みながら考えた。

それくらい、この作家には現代というものが皮膚感覚となって定着しているように思われる。

「現代」と言えば、アイデンティティの喪失、自己疎外の状況からの脱出を希って都市を、あるいは異国を、そして自然のなかを彷徨徘徊する主人公と、その前を変化する気候のように、また無縁の生物のように行きすぎる他人という構造が直ちに浮かんでくる。長いあいだ〝自然主義的リアリズム〟のなかに滞っていた我が国の文学を、はじめて本格的に現代に連れ出した安部公房が他界したのは今年の一月である(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1993年)。そうして、この「犬婿入り」は昨年の十二月に発表されている。

この本に収められている『ペルソナ』と『犬婿入り』との間には、現代文学の土俵から静かな出発をした作者が、新しい文学世界へと跳躍したと思われるような質的な展開がある。

『ペルソナ』は東アジア人である道子とその弟の和男の姉弟がドイツに留学していて、どこにもアイデンティティを見いだすことができない状況を描いている。主人公の道子は、得体の知れない強迫観念に追い立てられるように「西へ西へ」あるいは「東へ東へ」と歩いてゆく。文章のリズムが、この強迫観念を、説明的にではなく読者に伝える。どちらへ行っても差別があり、日本人と分かると、トルコ人居住区の男は彼女のことを「ああトヨタか」と言う。ここには文化的伝統を失い、何年か使えばスクラップになる工業製品でしかイメージ形成ができない、その意味では最も〝現代的〟かもしれない日本人の、産業社会の申し子のような存在が映し出されている。勿論、主人公の道子はそうした状態に安住することができない。その様子は、彼女がドイツ語を教えている日本の駐在員の家庭を訪れた際の違和感のなかに現われている。

知人のドイツ人シュタイツさんは、日本語を話す時その顔から表情が消えているのを彼女は発見する。そうして日本人はいつも顔から表情が消えているのだ。おそらくそれは、日本人が日本語をも外国語のようにしか使えなくなっているからではないか。道子は止むを得ず能の深井の面を附けて町へ出るのだ。

この、現代文学の〝定形〟と言ってもいい構図で確かな才能を示した作者は『犬婿入り』で一歩その定形から前に踏み出す。

団地で学習塾を経営し、暇な時は擦り切れたもんペのようなものをはいて洒落たサングラスをかけ、八重桜の木の下で嬉しそうにポーランド語の小説を読んでいたりする主人公、北村みつ子は、突然現れた犬の化身である飯沼太郎と同棲をはじめる。彼等は、動物同士のように自然(?)に性交し、食事を分けあい、家のなかの掃除をしたり洗濯をしたりする。ここでは、アイデンティティ喪失以前のように見える工夫で、喪失以後の状況が構成されている。それは、ドイツの地方にもあるらしいが日本にも伝わる異種交配の民話・里見八犬伝などに劇化され、鶴の恩返しなどに美化されている民話が下敷になっているからでは必ずしもない。異種交配譚は舞台の背景として、あるいはディテールに信憑性を与える小道具として使われているのであって、作者の筆はまっすぐに人間存在の非合理性、哀しさ、そして逞しさに向けられているのである。この作品の終結部で、主人公の北村みつ子も人間世界の次元に固執してはいないことが暗示されているのは、そもそも人間世界の次元などと呼ぶべき確固としたものがあったのだろうかという作者の現代認識の反映である。勿論世俗は飯沼太郎と北村みつ子、彼女がやがて引き取ることになる女の子扶希子と、その父親の松原利夫達の関係を人間世界の構造に押し込めようと考え、その動きが北村みつ子失踪の誘引になるのである。

この作品には、喩が日常そのものになりかねない現在の文学の危うさが表現されている。

その意味で『犬婿入り』は、疎外状況を描くこと自体がシミュレーションとして眺められざるを得ない、ポスト現代文学のパイオニア的作品と言うことができそうである。
犬婿入り / 多和田 葉子
犬婿入り
  • 著者:多和田 葉子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(148ページ)
  • 発売日:1998-10-15
  • ISBN-10:4062639106
  • ISBN-13:978-4062639101
内容紹介:
多摩川べりのありふれた町の学習塾は"キタナラ塾"の愛称で子供たちに人気だ。北村みつこ先生が「犬婿入り」の話をしていたら本当に「犬男」の太郎さんが押しかけてきて奇妙な二人の生活が始まった。都市の中に隠された民話的世界を新しい視点でとらえた芥川賞受賞の表題作と「ペルソナ」の二編を収録。

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初出メディア

中央公論

中央公論 1993年6月

雑誌『中央公論』は、日本で最も歴史のある雑誌です。創刊は1887年(明治20年)。『中央公論』の前身『反省会雑誌』を京都西本願寺普通教校で創刊したのが始まりです。以来、総合誌としてあらゆる分野にわたり優れた記事を提供し、その時代におけるオピニオン・ジャーナリズムを形成する主導的役割を果たしてきました。

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