書評

『ディオゲネス変奏曲』(早川書房)

  • 2019/05/20
ディオゲネス変奏曲 / 陳 浩基
ディオゲネス変奏曲
  • 著者:陳 浩基
  • 翻訳:稲村 文吾
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:新書(362ページ)
  • 発売日:2019-04-03
  • ISBN:4150019428
内容紹介:
今、新たな潮流として注目を浴びている華文(中国語)ミステリ。その第一人者・陳浩基が持てる才能を遺憾なく発揮したのが、この自選短篇集である。大学生たちが講義室にまぎれこんだ謎の人物「X」の正体を暴くために推理を競い合う本格ミステリ「見えないX」、台湾推理作家協会賞最終候補作となった衝撃のサスペンス「藍を見つめる藍」、密室殺人を扱った「作家デビュー殺人事件」、時間を売買できる世界を描いた異色作「時は金なり」など、奇想と仕掛けに満ちた驚愕の17篇を収録。著者デビュー10周年記念作品。

不思議な文化相互交流現象

借りた場所、借りた時間――わたしのような世代の人間には、この言葉はすっかり頭の中に刷り込まれている。ハン・スーインが書いた自伝的小説の中に出てきて、その映画化「慕情」でも使われて有名になった、香港という都市を表す言葉である。その言葉が人口に膾炙(かいしゃ)してから半世紀以上が経過した今、わたしたちが香港に対して抱くイメージは様変わりした。ブルース・リーの出現を契機とした香港映画の隆盛はめざましく、カンフー・ブームのみならず、一九八〇年以降には俗に香港ノワールと呼ばれる香港製の犯罪映画が流行し、現在に至っている。そして今、わたしたちが受容する香港発の文化に、もうひとつの注目すべき存在が加わった。それは、二〇一七年に翻訳紹介され、ミステリ界の話題をかっさらった『13・67』の著者で、台湾でも活躍中の香港生まれの作家、陳浩基(チャンホーケイ)である。

『13・67』は、六本の中篇を集めた連作警察小説の形式を取り、最初は現代に始まり、最後には半世紀前の「借りた場所、借りた時間」の時代へと逆行していく。この連作集は、ひとつひとつが独立した古典的なミステリとして読めるような体裁を取りながらも、全体として見れば、香港の独特な歴史がくっきりと浮かび上がる長篇小説になるという、気宇壮大な仕掛けがみごとに成功している傑作だった。香港を代表する映画監督の王家衛(ウォンカーウァイ)が映画化権を獲得したというのも、なるほどとうなずける話である。その陳浩基が書いた、ミステリ、SF、ホラーなど、さまざまなジャンルにまたがる短篇を集めたのが、ここで紹介する『ディオゲネス変奏曲』だ。

ここには、『13・67』に濃厚にただよっていた香港の匂いはない。それぞれの短篇を束ねるのは香港ではなく、多様な文化を摂取して、その刺激から、多方向に広がる作品を生み出そうとする陳浩基という一人の作家の頭脳である。だから、この短篇集を読んで読者がまず感じるのは、ミステリやSFといったものに初めて出会って、こんなおもしろい読み物が世の中にあったのかと思ったときの、あの新鮮な驚きである。おそらくそれは、作者である陳浩基自身の読書体験でもあったはずだ。

著者あとがきで、陳浩基は石黒正数のSFミステリ漫画『外天楼』について、「メタフィクション、ミステリ、アンチミステリ、風刺、SF、パロディ、ナンセンス、コメディ、悲劇、人間ドラマを融合させた傑作」だと評している。実は、その言葉は『ディオゲネス変奏曲』にも当てはまる。それぞれの短篇は、そういう要素を複数組み合わせてミックスさせたものになっていて、単一のジャンルに収まるような作品はない。むしろ、ジャンルが成立している基盤そのものを問うような、ジャンルに対する批評を含んだ作品が特徴的である。たとえば、謎の人物Xは誰かを当てる推理ゲームという設定の短篇「見えないX」は、一定数の容疑者の中から犯人を探し出す本格ミステリの形式を踏襲しながら、最終的にはその形式が崩れてしまう。それが陳浩基による、本格ミステリの変奏なのだ。

そして、日本の読者にとっては、日本の漫画やポップスといった文化だけでなく、この短篇群に日本産の本格ミステリ、さらには新本格ミステリの影響を読み取らずにはいられない。横溝正史に伏線の張り方を学んだという陳浩基は、借りたものの寄せ集めから、華文(中国語)ミステリの奇妙な華を咲かせた。わたしたちは今、輸出したものがこうした変奏を受けて輸入されるという、不思議な文化相互交流の現象を経験しているのである。
ディオゲネス変奏曲 / 陳 浩基
ディオゲネス変奏曲
  • 著者:陳 浩基
  • 翻訳:稲村 文吾
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:新書(362ページ)
  • 発売日:2019-04-03
  • ISBN:4150019428
内容紹介:
今、新たな潮流として注目を浴びている華文(中国語)ミステリ。その第一人者・陳浩基が持てる才能を遺憾なく発揮したのが、この自選短篇集である。大学生たちが講義室にまぎれこんだ謎の人物「X」の正体を暴くために推理を競い合う本格ミステリ「見えないX」、台湾推理作家協会賞最終候補作となった衝撃のサスペンス「藍を見つめる藍」、密室殺人を扱った「作家デビュー殺人事件」、時間を売買できる世界を描いた異色作「時は金なり」など、奇想と仕掛けに満ちた驚愕の17篇を収録。著者デビュー10周年記念作品。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2019年5月5日

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