- 著者:高橋 源一郎
- 出版社:朝日新聞社
- 装丁:単行本(253ページ)
- 発売日:1999-03-00
- ISBN-13:978-4022573759
- 内容紹介:
- 死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。
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先週の月曜からアイルランド、木曜からはロンドン、そしていまイギリス南部のチチェスターという町の郊外のホテルでこれを書いている。ダブリンではもちろんジェイムズ・ジョイス記念館を表敬訪問、収められたジョイスの翻訳本の中に柳瀬尚紀さんが訳した『フィネガンズ・ウェイク』全二巻を見つけ、どちらも表紙が上下逆になっていたので元に戻しておいたが、あれは記念館の担当者が日本語が読めなかったからなのか、それとも洒落でわざわざ上下を入れ換えていたのだろうか。
アイルランドからイギリスへの旅の間、毎日、久世光彦さんの『卑弥呼』(読売新聞社)を読み続け、そしてついさっき早起きして朝六時頃、最後のところを読み終わったばかり。いまぼくは、よく晴れたイギリスの朝のように爽やかな気持ちに包まれている。一言「久世さん、素敵な小説をありがとう」といえばそれで十分なのだけれど、同時にこの小説の(ぼくなりに考えた)面白さの秘密を書いてみたい気もするのだ。
『卑弥呼』は最初から最後まで緊張感に包まれて前へ進んでゆく。それは、この小説が新聞小説だからだろうか。ぼくは読みながら、ずっとそのことを考えていた。登場人物がいて、ストーリイがあれば自動的に小説は読者と共に前へ進んでゆく――というのは嘘だ。
作者は読者の興味を引きながら、小説全体を推し進めてゆかねばならない。とりわけ、毎日少しずつ読者の前に姿を現す新聞小説においては。漱石の小説の大半が新聞小説であったことは有名だし、秋声の傑作『新世帯(あらじょたい)』もまた新聞小説であった。新聞は作家の技量が試される場所だったのだ。
久世光彦がこの小説の推進力にしたのは「ヤレない恋人たち」である。どちらも魅力的な若い男女カオルとユウコは恋し合っているのに「ヤレない」。
そればかりではなく、カオルは自分を誘惑するように現れる思い出の女性未知子さんとも「ヤレない」し、ユウコも強烈に魅かれるものを感じながら謎めいた男可門と結局「ヤレない」。五百頁近い長編は、すべての「ヤレない」恋人たちの思いを乗せてクライマックスに至る。だから、この小説に漲(みなぎ)る緊張感とは、性的な願望の成就へ向かう緊張感に他ならないのだ。どうして、それに飽きたり、目をそらすことができるだろう。思えば、日本文学最大の(もちろん新聞小説としても最高の)傑作、漱石の『明暗』も「ヤレない」男女の性的緊張を描いたものではなかったろうか。ラストの温泉での主人公たちの再会は、なにもしていないのに息詰まるほどエロティックだった。エロティックであることと、性交を描くこととの間にはなんの関係もない。性的緊張とは無限の期待なのである。
恋愛小説はいつも小説の王道であった。そして、いま性の中途半端な解放は恋愛小説を困難なものにしたといわれる。だから久世光彦は「ヤレない」恋人たちを主人公にして恋愛小説を書いた。しかし、それが決して奇手ではなく、もっともオーソドックスな方法であることを、ここまで読まれた読者はおわかりだろう。
さて、『卑弥呼』のもう一つの特徴は全編にちりばめられた引用の綴れ織りである。八十歳のお祖母ちゃんを筆頭に、この小説の登場人物の多くは豊かな文学(だけではないが)の素養を持たされている。だが、作者はペダントリーの故にそんな書き方をしたのではあるまい。文学もまた、作者が哀惜する、昭和初めの風物や美しい日本語の言い回しと同じ運命をたどりつつあることを知ってもらいたくて、いや記憶に留めてもらいたくて書いたのだ。
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