書評

『桃』(新潮社)

  • 2017/07/04
桃 / 久世 光彦
  • 著者:久世 光彦
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(169ページ)
  • ISBN-10:4104101044
  • ISBN-13:978-4104101047
内容紹介:
百面相の女芸人・お葉と暮らす女衒の清蔵。ある日、家に戻るとお葉の姿はなく、清蔵の周りには次々と奇怪な出来事が…淫らなまでに熟れた桃の匂いが怪異を呼ぶ表題作のほか、亡父のトランクから現れた奇妙な"遺品"をめぐる謎が"私"を惑わせる「尼港の桃」など、甘く妖しく艶めかしい-極めつきの八篇。

桃割れした時間の裂け目

久世光彦の小説にはいつも「不穏」の匂いが染み着いている。ひとつひとつの情景にひそむ舞台装置としてのきな臭さを言っているのではない。鮮烈な場面の積み重ねが汗や体液に少しずつ溶け出して、作中人物の、さらには読者の三半規管を狂わせ、それがとつぜん、めくるめく幻想の世界へと一挙に通じてしまう、そんな瞬間に「不穏」の文字をあてがってみたいのだ。ならばそのような眩量を起こす扉はどこにあるのか。『桃』と題されたこの絢燗(けんらん)華麗な短篇集に収められている作品すべてが、こめかみに脈打つほどの高揚をもってそれを教えてくれるだろう。

桃とはじつに不思議な果物である。座りが悪くて鞍からずり落ちるような腎部を桃尻と言うけれど、あれは形も色も、触感や果汁すらも生々しい夢想を誘う、字義どおりの比喩ととって差しつかえのないものだ。

危険な蜜は、つきあっていた女のもとで腹上死したらしい父親を弔う席に、当の相手が焼香に訪れるという冒頭の表題作から、ぞんぶんに滴り落ちている。十七歳の息子は、恥ずかしさに身を硬くしながらも喪服の下に桃色の襦袢(じゅばん)を着た女に吸い寄せられ、彼女のあとを追う複数の黒い影に気づくと、神社の森のほうへついていく。少年が目にしたのは、数珠を口に押し込まれ、後ろから弄ばれている女の姿だった。ところが視線が交錯した瞬間、彼女は少年にふっと微笑むのだ。彼はこのとき、父とおなじ女性を空想のなかで抱いて性の絶頂と死を体験し、無垢な少年期と訣別する。

桃割れした時間の裂け目から、血とエロスが噴き出す。「むらさきの」の主人公、桃井雅は、政治家であった祖父に、賽の目に刻んで氷で冷やした桃を、口移しで食べさせられる。近親相姦的な匂いのたちこめたこの記憶を逃れるかのように、祖父が死に、父が死んだあと、女だけの家と知って忍んできた不良どもを、十三歳の雅は腐った桃と燭台をなげつけて撃退するのだが、桃が砕けるのとほぼ時をおなじくして、少女は自身の股間に鮮血を見る。

そう、桃は腐り、崩れなければならない。エロスも沈黙も内側に閉じこめてしまう紡錘形のレモンと、それは正反対の特質である。ふらふらとやってきて家に居着いてしまった雌猫に、若い男と出奔した母の思い出を重ね、ゆっくりとした狂気につつまれていく豆本作りの中年男を描いた「囁きの猫」に満ちる銀木犀とドクダミと石灰の匂い。尼の港、すなわちニコライエフスクで起きた一九二〇年の尼港(ニコライエフスク)事件を軸に私小説ふうの語りを展開する「尼港の桃」の、純白の僧衣に飛び散る赤い血のイメージと、半世紀前に死んだ亡父のトランクから出てきたというひからびた桃のミイラ。経帷子を着た婀娜(あだ)っぽいふたりの足抜け女郎の、奇妙な遍路を追う「同行二人」で崩れていく、梅毒に侵された心身。桃はつねに内側から人を蝕むのだ。

そればかりではない。桃の果汁はべつの染料にも溶け出している。上から朱子、紅子、桃子と、二歳ずつ年の離れた紺屋の三姉妹を見つめる「響きあう子ら」では、蓮っ葉な母親を入れたこの四人の女性が、藍の色と匂いにほだされるように次々と男のもとへ走る。藍の瓶には女たちの果肉が混じりあって、染めあがりの気品を高めていく。

生と死の喫水線にあらわれる、まがまがしい性の悦楽と、その悦楽の裏の激しい悔恨。このふたつを、腐りかけた桃の果肉が放つ甘く饐(す)えた匂いのなかで読者は同時に味わい、惚けた顔で物語の現実の外へと放り出される。泉鏡花、内田百閒、江戸川乱歩、日影丈吉の流れを汲みながら、彼らにすらない飽和寸前の逸楽に満ちた、手だれの作品集である。

【この書評が収録されている書籍】
本の音 / 堀江 敏幸
本の音
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(269ページ)
  • 発売日:2011-10-22
  • ISBN-10:4122055539
  • ISBN-13:978-4122055537
内容紹介:
愛と孤独について、言葉について、存在の意味について-本の音に耳を澄まし、本の中から世界を望む。小説、エッセイ、評論など、積みあげられた書物の山から見いだされた84冊。本への静かな愛にみちた書評集。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

桃 / 久世 光彦
  • 著者:久世 光彦
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(169ページ)
  • ISBN-10:4104101044
  • ISBN-13:978-4104101047
内容紹介:
百面相の女芸人・お葉と暮らす女衒の清蔵。ある日、家に戻るとお葉の姿はなく、清蔵の周りには次々と奇怪な出来事が…淫らなまでに熟れた桃の匂いが怪異を呼ぶ表題作のほか、亡父のトランクから現れた奇妙な"遺品"をめぐる謎が"私"を惑わせる「尼港の桃」など、甘く妖しく艶めかしい-極めつきの八篇。

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 2000年4月21日

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